1945年2月3日から3月3日までマニラ市の一部を占拠した日本軍と米軍との間で発生したマニラ市街戦の遺族たちの団体、メモラーレ・マニラ1945が主催する同市街戦80周年慰霊祭が22日午前、同市イントラムロス内の公園で厳かに執り行われた。遺族を含む招待客ら約150人が集まり、市街戦で斃れたフィリピン人犠牲者たちの冥福を祈るとともに、歴史的事実を記憶し、将来の戦争を防ぐための努力を継続することを誓い合った。
慰霊祭には比国家歴史委員会やイントラムロス庁、国軍などの比政府機関の代表の他に、カールソン駐比米国大使を含む、ポーランドやオーストラリア、スペインやメキシコなどの大使館代表者らが参加した。在比日本国大使館からの参加はなかったが、日本のNPO法人「ブリッジ・フォー・ピース」(神直子代表)のメンバー3人や日本人研究者、フィリピン大学に留学する日本人留学生など10人を超える日本人も参加した。
式典ではメモラーレ・マニラのクリスティーナ・アボイティス代表が開会の挨拶を行い「市街戦では日本軍による虐殺事件や米軍による砲撃に巻き込まれてマニラ市民10万人以上が亡くなった。一家が全滅したケースもある。知人の建築家によると今もイントラムロスで掘削作業などをすると人骨が出てくるという。生き残った遺族たちは歴史を語り継ぎ、戦争を二度と起こさないという強い決意を次世代に伝えることが役割だと考えている」と語りかけた。
また、比国家歴史委員会のレガラド・ホセ委員長はマニラ戦という呼称がつく戦争が過去にフィリピンで何回も起きていると紹介した上で、マニラ市街戦は中でも最大の犠牲を出した戦いだと強調した。また、同委員長自身の祖父もマニラ市街戦より早い1月下旬にブラカン州マリラオ町で日本軍によって他の多数の住民らと共に虐殺されたことも明らかにした。
式典ではカールソン駐米大使のスピーチやブラウナー国軍参謀総長のメッセージなどが読み上げられたほか、子どもたちの詩の朗読に合わせて鎮魂の鐘を鳴らすシーンもあった。式典の後に「マニラ市街戦」と銘打った写真とパネルでマニラ市街戦を紹介する公園内の新コーナーの除幕式も行われた。
今回、ブリッジ・フォー・ピースを代表して献花したメンバーの柴田あゆみさんはまにら新聞に対し、「日本人は被害者意識が強いが加害者であることも神直子さんと出会って理解できた。謝罪にはならないけれど平和な生活がいかに大事かを子どもや次世代に語りついでいくことが大切かと思う」と感想を述べていた。
また、フィリピン大で統計学を学ぶ大学2年生で同大の教員が組織したスタディーツアーの一環として参加していたイサベル・ウシタさん(19)は「今回参加してこれまで市街戦のことを自分が知らなかったことが恥ずかしくて悲しいと思った。しかし、これからもっと勉強して歴史を知りたい」と答えていた。
▽常に平和の道を選ぶ
首都圏タギッグ市にあるマニラ米軍記念墓地でも22日午後、米国大使館が主催するマニラ解放80周年記念式典が行われた。23日付英字各紙が報じた。
式典に参加したマルコス大統領はスピーチで「国家間の戦争によりもたらされる残虐行為を深く知っているフィリピンとして常に平和の道を選んできた」と強調した上で、「我々は米国との長き同盟関係やパートナーシップ、友好関係に満足しているだけでなく、インド太平洋地域における平和と繁栄という共通のアジェンダを進めるという目標も共有している」と比米関係の盤石さに自信を示した。(澤田公伸)