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ハロハロ

2010/2/8 社会

 まるで血を吸ったかのように赤い錆(さび)が浮き出た砲弾の破片が広場一面を覆う。兵舎は外壁の一部を残すだけの無残な姿。1959年10月、初めて足を踏み入れたイントラムロスのサンチャゴ要塞は、まだ生々しい砲撃の跡が残っていた。太平洋戦争のフィリピン戦線で反攻に転じた米軍は火砲120門と戦車を主体にして45年2月3日、マニラ市街戦を開始した。

 迎え撃つ日本軍は陸戦の経験がない海軍と小銃代わりに竹やりを持たされた現地召集兵が主体の陸軍計2万人。一度も互角に戦うことなく1万人が戦病死した。それを象徴する惨事が同月16日深夜、リサール公園で起きた。マニラホテルに向かう海軍防衛隊の100人が匍匐(ほふく)前進中、照明弾とサーチライトに照らし出されて全員が戦死した。マニラホテルでは、重傷者は毒入りの「別れの杯」をあおり、軽傷者は手投げ弾で自決を命じられたという。誰にも、無事を祈る肉親が日本にいたはずだ。

 大戦中に亡くなったフィリピン人は、この市街戦の10万人を加えて推定110万人、日本人は52万人で、犠牲者は彼我共に庶民。攻め入ったこの国に日本が残した「負の遺産」は少なくない。その事実の一端と戦争の愚かさを戦後世代の方々にも知っていただきたくて、再び「マニラの悲劇」を取り上げた。65年前の2月に起きた出来事である。(濱)

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