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10月25日のまにら新聞から

ピメンテル氏の「ノー」と「イエス」 国づくりに尽力した政治家

[ 791字|2019.10.25|社会 (society)|新聞論調 ]

 自らの人生が国の歴史と交差する時、アキリーノ・ピメンテル・ジュニア氏は何度もノーと言った。

 マルコスが画策した1973年憲法に反対票を投じた時。カガヤンデオロ市長として、あるいは一市民として自由を制限されることを拒否してマルコス政権期に4度も逮捕された時。91年に上院議員の一員として米軍基地延長協定を拒否した時。友人でもあったエストラダ大統領(当時)の弾劾裁判を上院議長として取り仕切った時……。

 米軍基地に反対したころは、当時のコラソン・アキノ大統領が米国との新たな軍事協定の承認を訴えていたのを見て失望しており、「人生で最も悲しい時期だった」という。

 ピメンテル氏は、マルコスやその取り巻きに屈せずに憲法案を拒否したことで、フィリピンが非民主的な国に陥る道から救ったのだ。独裁者から彼を守った市民の活発なデモは、後にマルコスを失脚させて世界を驚かせたピープルパワー革命に人々を奮い立たせたに違いない。また、米軍基地存続や、弾劾裁判中にエストラダとの友情に、ノーを突きつけたことで、比の主権を明確にしてくれた。その政治家精神に則った行いが、国の危機にあって、比が米国の一部などではないことを思い起こさせてくれた。

 こうした「ノー」だけでなく、ピメンテル氏の「イエス」の遺産もある。

 カガヤンデオロ市長としての経験に基づいてつくり上げた地方自治法だ。エドサ革命以降に制定された法律のなかで最も重要だと言えるものだ。これは地方自治体を本当の意味で政治参加と政治力の場に変えることを可能にした(実際は完全には実現してはいないのだが)。

 ピメンテル氏は、統治が真に地域に根ざしたものであるべきとのビジョンを持っており、連邦制の支持者でもあった。われわれは今、ピメンテル氏が国づくりに尽力した成果の上に生きているのだ。(22日・インクワイアラー、ジョン・ネリー)

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