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6月22日のまにら新聞から

受刑者や戦犯を人道的に扱う 私の父、アルフレド・ブニエ

[ 753字|2018.6.22|社会 (society)|新聞論調 ]

 昨日が父の日だったので、私の父について語るのを許してほしい。父は私の最初の英雄であり、模範だった。最初の教師でもあった。父、アルフレッド・ブニエは刑務所長を長年務めたあと、刑務局長になったが、生涯にわたる重要な教訓を私に残してくれた。

 子供だった頃、父が毎日、出勤する際に白のスーツを着こなし、家族に「行ってきます」を言う姿が焼きついている。毎週土曜朝には父の面前で受刑者たちがブランスバンド演奏をする様子を見て、父が重要な人物だと知った。刑務局長に就任して公邸に引っ越してからは、模範囚たちが家事手伝いや庭師、警備員などとして日中に働きに来ていたのも覚えている。中には殺人など重罪を犯した受刑者もいたが、父は彼らに敬意を示していた。父はよく「受刑者たちも人間だ。罪を犯したかもしれないが、もう一度、生産的な市民として生きるチャンスを与えられるべきだ」と話していた。

 父は戦前に教員をしていた時から、学校に行けなかった受刑者たちの識字教育の必要性を訴えていた。そして戦後、父は戦争犯罪で有罪判決を受けた百名を超える元日本兵たちを刑務所長として受け入れた。第2次大戦中、日本兵は市民たちを殺し女性をレイプした。戦後すぐは反日感情が強かった。私の父方の祖父であるイグナシオ・ブニエは1945年2月3日にアラバン牧場にあった自宅で日本兵に拉致され、その後、二度と戻って来なかった。この時期にはモンテンルパ刑務所にいた比人政治犯31人も日本兵によって殺されている。

 しかし父は多くの人の予想を裏切り、元日本兵らを人道的に扱い、復讐に燃える比人受刑者からも守った。後年になって父は私にその理由について「私たちが復讐すれば、暴力の連鎖は止められない」と説明した。(18日・ブレティン、イグナシオ・ブニエ)

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