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11月21日のまにら新聞から

「自由と責任」の均衡

[ 693字|2005.11.21|社会 (society)|新聞論調 ]

大統領のメディア批判

 アロヨ大統領とメディアとの確執は、国民や報道関係者にとって経験済みのことである。筆者の五十年間のメディア生活を振り返れば、歴代大統領もメディアを批判してきた。マルコス元大統領は、マニラ・クロニクル紙の社長と長期戦を展開。アキノ元大統領はスター紙のコラムニストを提訴したが、却下された。

 大統領とメディア間で繰り返される報道の自由と責任をめぐる争いは長年の課題だ。自由には責任が伴う。大統領権限の行使と同様、報道の自由も国民の信頼に基づく。

 新聞、テレビなどのメディアは、報道の自由を前提としている。しかし、しばしば自由に伴う責任を忘れ、扇情的になってしまうのは確かだ。この事実を率直に認めるべきである。新聞は、国民の権利を侵害する汚職、スキャンダル、暴力などの出来事を編集者の意見を交えて報道する。「均衡の取れたニュース」を掲げる新聞すら、現場記者を反発させる大胆な見出しを好む。世間を驚かせるショッキングな見出しで勝負するタブロイド版は部数で他を圧倒している。

 報道の自由とは完全無欠を意味しない。その自由は国益や国家の安全に密接に関わる。比共産党やイスラム過激派、アブサヤフを誇大に描こうとの試みには限度がある。最悪なのは、メディアがテロリストの側に付き、これを支援してしまうことだ。人間は自由に叫ぶ権利を持つが、映画館の中で叫べば犯罪になる。

 コラムニストは、批判の仕方には慣れているが、批判された場合の対応も心得るべきだ。アロヨ大統領がメディアを批判した際、「報道の自由が奪われた」などとの幼稚な叫びは控えたいものだ。(15日・スタンダードトゥデー、エミル・フラド氏)

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