エスコルタ街
かつての西洋文明の窓口
マニラ市庁舎を通り過ぎ、ジョーンズ橋でパシッグ川を渡り切り、右に入ったところがエスコルタ通りだ。
金融街だった名残の銀行支店の合間に、電気店、雑貨店、レストランなどが雑然と並び、漢字の看板やカレッサ(馬車)のひずめの音が響きわたる光景は、通りが中華街であることを伝えている。
中華街の入り口を示す「フレンドシップ門」が近くにそびえ、中華街独特の雰囲気を醸し出しているエスコルタだが、戦前、この一角は、時代の最先端商品が並ぶフィリピン随一のファッションストリートとして賑わっていた。
「欧米の物産を扱う店(バザール)が軒を連ね、通り全体がヨーロッパの香りが漂う街だった」と懐かしむのは、エスコルタのほぼ中央に建つネオ・クラッシック調四階建て「CALVO」ビルの支配人ゲラルド・テオティコさん(54)。一九三八年に建設された同ビルの三代目オーナーだ。
年代物のエレベータが残る同ビル内には、当時の写真や宣伝広告チラシ多数が展示され、華やかだった往時をしのばせる。チラシの内容をのぞくと香水や化粧品、靴などのファッショングッズ、それに蓄音機やアイスクリームなど。東京の銀座や横浜の元町のような西洋文明の窓口だった。
欧米人主体だったこの通りが、一時期日本人街になっていたことはあまり知られていない。目抜き通りのど真ん中に「日本バザール」や「東京バザール」といった物産店。東京三菱銀行の前身、横浜正金銀行や日本領事館もこの一角にあった。しかし、戦前の日本人が、築きあげた日本人街としてのエスコルタは、日本軍敗退とともに消滅。以後、エスコルタは受難の日々を迎える。
「戦前の華やかさが戻ることはなく、時代に取り残されていった。決定的だったのは七十年代初めのマカティの開発だった」とゲラルドさんは言う。街のシンボルであったシティバンクなど米銀二行や、国内最大手のアヤラ財閥系銀行本店もマカティに移転。エスコルタ一気に地盤沈下した。
八三年ニノイ・アキノ暗殺に端を発する金融危機以降、エスコルタは老朽化した建物と、空きテナントばかりが目立ち、荒廃が進んだ。
かつての栄光を取り戻そうと、マニラ市役所の支援を受け復興運動が始まったのは八八年のこと。中華街に組み込まれたのはこの時からだ。時代によってその主人公を替えながら、エスコルタは歴史を刻み続けている。 (松澤信彦)