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5月23日のまにら新聞から

マバラカット旧日本海軍基地

[ 981字|1999.5.23|社会 (society)|名所探訪 ]

記憶も灰に埋まったか

 ルソン島パンパンガ州マバラカット町の外れ。かつて旧日本海軍航空隊基地があった草原を乾いた西風が走る。風上には一九九一年六月に大噴火したピナトゥボ山を擁するサンバレス山脈。火山灰混じりの地表から顔を出したコンクリート製の「屋根」の周りでは雑草が風にそよぐ。

 一九四四年十月二十五日午前七時二十五分、この屋根の周辺から二百五十キロ爆弾を抱えた旧日本海軍の零戦五機が飛び立った。敗戦まで続く神風特別攻撃隊の初出撃だった。目的地はレイテ島タクロバン沖。約三時間後、五機は米機動部隊に体当たり攻撃を敢行、海の藻くずと消えた。

 屋根は、特攻隊員の遺族や町関係者が七四年五月に建立した「神風神社」のゲートの一部。その数十メートル先には「第二次世界大戦に於(おい)て日本神風特別攻撃隊機が最初に飛び立った飛行場」と刻まれた慰霊碑が立っていた。九二年、火山灰混じりの泥流(ラハール)に埋まるまで、遺族らはこの屋根の下をくぐって慰霊碑に参拝していた。

 「昔は観光バスを連ねて日本人がやって来た。神社が埋まった後は、年に数グループが訪れるだけ」。町の依頼で神社内の清掃を約二十年間続けたポンシャノ・ドゥンカさん(69)は言う。

 特攻隊出撃から五十五年。日本の篤志家らの寄付金を元手に、神社を同じ場所に再建立しようとする動きが出ている。発起人の一人、町職員のガイ・ヒルベロさん(40)は「事業費が確保でき次第、今年中にも着工したい」と話す。

 鳥居から向かって正面奥の壁には巨大な日比両国の国旗が描かれ、約五百平方メートルの敷地内には二百五十キロ爆弾の脇で軍刀を掲げる若い操縦士の立像、特攻隊創設者の大西瀧治郎中将の肖像などを配した壁画が立ち並ぶ——。こんな完成予想図には、「カミカゼの神秘性に心をひかれる。神社を平和と日比友好のシンボル的存在にしたい」というヒルベロさんの「思い」が強く反映されている。そこに、フィリピン人や米兵の姿はない。

 戦争中の苦い記憶は世代を経るにつれて薄れ、日本軍の飛行場や神社があったことを知らない若い町民さえいる。

 当時、十代の少年だったドゥンカさんも「日本軍には何の恨みもない。戦後、金持ちになった日本がうらやましいぐらいだ」と笑う。果たして記憶は風化したのか。その答えは、新神社が人々の目に触れるようになった時、きっと出る。(酒井善彦)

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