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2月14日のまにら新聞から

日本人記念墓地公園

[ 861字|1999.2.14|社会 (society)|名所探訪 ]

桜やツツジに囲まれて

 ゲートをくぐると、懐かしい線香の匂いが鼻をついた。白い煙が上がっている敷地の一角では、初老のフィリピン人男性が、しおれかけた供花や線香混じりの紙くずを焼いていた。

 「二月に入って、二十五人ほどの日本人の団体がやってきた」。公園を管理しているモンテンルパ刑務所(首都圏モンテンルパ市)の職員、ヌニェス・ビセンテさん(46)は言う。線香や供花は、おそらくこの団体が残していったものだろう。

 墓地公園は、今月上旬に二十三年ぶりの死刑が執行された同刑務所敷地内にある。約百メートル四方の園内を一巡するコンクリート敷きの順路の傍らでは、ブーゲンビリアが赤い花を咲かせている。

 半世紀前、同刑務所では、軍事法廷「マニラ裁判」で死刑判決を受けた日本人戦犯八十人のうち、ラグナ州ロスバニオスの密林で斬首された山下奉文大将と本間雅晴中将の二人を除く七十八人が絞首刑に処された。

 処刑された軍人の遺族や戦友らからなる墓地公園保存会(神戸市兵庫区)の橋本務会長(64)によると、遺体が埋められた刑場裏の谷には、戦後になってこの地を訪れた遺族らが建てた墓標が、数百メートルにわたって並んでいたという。

 公園の整備は、一九七六年ごろに始まり、八○年に完成した。土地はフィリピン政府が五十年契約で無償提供、建設費は保存会が負担した。

 最も奥まった部分には、深さ約七│八メートルの穴が掘られ、刑場裏の谷から収集した遺骨が収められた。その上には現在、観音像を中心に、日本各地の遺族会などが建立した慰霊碑が林立している。

 遺骨収集に参加した橋本会長は「谷には、土中から露出した遺骨が散乱していた。どれがだれの遺骨か分からないような状態だった」と当時を振り返る。

 公園完成後、観音像の周辺には、ツツジや桜など日本から持ち込まれた木々が植えられた。「南国で眠る父や兄弟、戦友に日本の景色を」との願いから、桜は沖縄産のものが選ばれた。観音像を覆うように枝を張ったその桜は、約十五年間で一度だけ、淡いピンクの花びらを開かせたという。(酒井善彦)

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