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10月26日のまにら新聞から

「あなたの死 無駄ではなかった」 特攻80周年慰霊祭、パンパンガ州

[ 1721字|2024.10.26|社会 (society) ]

最初の特攻隊が出撃して80年周年を迎え、マラバラット西飛行場で慰霊祭が開かれた

パンパンガ州マバラカット町西飛行場跡で開かれた特攻80周年慰霊祭=竹下友章撮影

 旧日本軍の最初の特攻隊がフィリピンから出撃して80年を迎えた25日、特攻隊が拠点としたパンパンガ州マバラカット町西飛行場跡の特攻隊慰霊碑で慰霊祭が営まれた。比からは同飛行場を管轄するクラーク国際空港公社(CIAC)のナンシー・パグリナワアン最高経営責任者(CEO)、クラーク開発公社のアグネス・デベナデラ総裁、慰霊碑の建立に尽力した歴史家の故ダニエル・ディソン氏の子族らが参席。日本からは特攻隊戦没者慰霊顕彰会の岩崎茂理事長ら役員や、軍事ジャーナリストの井上和彦氏が参加したほか、在日本国大使館・防衛駐在官の秋葉和明1等空佐および川畑範幸2等海佐、マニラ日本人会の岡本和典会長、比日連合財団の浅沼武司理事長らが参列。米国商工会議所、台北経済文化事務所からも代表者が参加した。

 雨の降る中、早朝に集まった約130人の参加者は、最初に特攻を成功させた関行男大尉率いる敷島隊が出撃した午前7時25分を前に、黙とうを捧げた。

 追悼の辞は、最初の特攻隊が編成された第一航空艦隊第201航空隊に整備兵として所属していた株式会社タダノの多田野弘名誉顧問(104)が寄せ、顕彰会の鮒田英一理事が代読。

 追悼の辞で多田野氏は、「私たち201航空隊は西太平洋の主戦場を戦場として転戦してきたが、この地が日本の最後の防衛地となった」と説明。「私たちはこの地で、『ここがおれたちの死に場所だ。一億同胞を守るために喜んで死のう』と、一点の私心もなく神のように崇高な気持ちになって、誰もが進んで死地に飛び込んだ」と当時の特攻隊の心境を振り返った。

 その上で、殉職した特攻隊員に対し「残された私たちはあなたがたの死を無にしないように、祖国の再建に取り組んだ。今や経済大国となり、平和国家として世界をリードし、世界の繁栄と安定に貢献する偉大な国となった」とし「あなたがたの死は決して無駄ではなかった」と強調した。

 元航空幕僚長である顕彰会の岩崎理事長は、「故ダニエル・ディゾンさんなどを始めとしたフィリピンの皆さんのご厚意により、マバラカットでの慰霊顕彰が行われている」として感謝を表明。ディゾン氏が特攻隊の精神を「人類は自らのアイデンティティーを守るために自らの命を引き換えにするところまで到達することができる」と考えていたことを紹介し、「世界中で国際安全保障環境が不安定化するなか、国民一人ひとりの国と同胞を思う気持ちと覚悟が最大の抑止力となる」との考えを語った。

 ▽平和と友好の象徴

 CIACのパグリナワアンCEOは、「日本だけでなく、親善を育もうとする全ての国にとって、この慰霊碑は平和と友好の象徴だ」と強調。ウクライナや中東で戦火が拡大するなか、「この慰霊碑は、戦争の教訓を生かし、平和を促進するという目的と、戦争には勝者はおらず、犠牲者のみいるという事実を思い出させてくれる」とし「神風攻撃を二度と起こしてはならない。慰霊碑は協力と相互利益促進のための手段にならなければならない」と訴えた。

 クラーク開発公社のデベナデラCEOは、特攻隊の精神をキリスト教におけるイエスの自己犠牲にたとえて敬意を表明。「彼らは自己の利益と保身を顧みず、平和と愛する祖国のために自己を犠牲にできる者たちだった。特攻隊は最高の自己犠牲を示した」と述べ、祖国愛と利他精神をたたえた。

 慰霊祭には日本からの慰霊ツアー客も参加。遺影を持って参加した歯科医の平岩慎次さんは、鹿屋基地に所属していた亡父・安治が、爆撃後に特攻する艦上爆撃機に乗ったことがあることを明らかにし、「それでも父は戦争を生き残ったことで、私がいる。きょうは父の戦友と会えて、本当に良かった」と感慨を口にした。

 式典後、マニラ日本人会の岡本会長はまにら新聞に対し、「フィリピンで生活し、仕事をしているわれわれ在比邦人にとっても、まず歴史を知ることが大事だと思っている」との考えを提示。長年にわたって慰霊祭の催行に尽力し、22年に在外公館町表彰を受賞している顕彰会員の竹内ひとみ氏を、11月下旬に開催されるマニラ日本人会総会の講演に招く予定であることを明らかにした。(竹下友章)

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