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10月17日のまにら新聞から

「父は私を愛していた」 僻地日系人集落を訪ねて(下)

[ 2357字|2024.10.17|社会 (society) ]

就籍許可を申請中のパシータ・マラモトさん「父は私を愛してくれた。私の父は日本人であり、私も心は日本人」

フィリピン日系人会のエスコビリャ法務担当(右)に父の記憶を語るパシータ・マラモトさん=9月、西ダバオ州ホセアバドサントス町で竹下友章撮影

 パシータさんは、父親の戸籍が特定されていないことから、もっとも就籍手続きを通じた国籍回復の難しいカテゴリーに分類される。現在、日本で弁護団が就籍許可を申請中だ。生存する3きょうだいの中で長子のパシータさんは、きょうだいの中でも直接父の記憶を持つ存在。加齢によって年々記憶をたどるのが困難になってきているが、長年聞き取りをしているフィリピン日系人会のヘレン・エスコビリャ法務担当と一緒にひとつひとつ父の記憶をたどってくれた。

 ▽生き方を教えてくれた父

 記憶に残る父の名は「マシムラ・マラモト」。母は少数民族ビラアン族出身。日本から移住した父は、大工をしながら自分の農場を経営し、大きな家を所有していた。近所の人が父をハポン(日本人)と言っていた。

 「父は私を愛してくれた」。パシータさんはこう振り返る。大工仕事が忙しいときは一カ月に一度しか帰宅しないこともあった父だが、近所の子どもにいじめられたとき、いじめっこに「娘とけんかするな」と叱ってくれたことを覚えている。父はコメとトウモロコシを輪作し、乾燥させて保存することで一年主食に困らない農作法を導入し、パシータさんといっしょに農作業に精を出した。「畑仕事を手伝いなさい。そうすれば、お父さんがいなくなっても生きていける」。父はそういって、パシータさんに生活の術を教えてくれた。

 そんな父は戦前、家屋の建設中に転落、その後、病床でふせり、その後亡くなった。遺体は親族で木製の棺を作り、埋葬した。パシータさんは埋葬の間ずっと泣いていた。父が当時町長だったジョン・ジョイス家の邸宅も建設していた縁で、父の死後はきょうだいと共にその邸宅で育てられた。

 そんな生活の中、戦争が始まる。日本軍が進軍してきたとき、「私は日本人の子。私たちを傷つけないで」と訴えた。すると、日本の兵隊はパシータさんたちを日本人の子として優しく接してくれた。しかし、日本軍が撤退し、米軍が支配権を取り戻すと、ビラアン族の親戚を頼りに山に逃げることを余儀なくされた。身内以外には日本語の苗字を隠し、ビラアン族として振る舞うことで身を守った。

 ▽受け継がれる日本愛

 戦後はジョイス家に戻り、後に結婚。結婚後は、夫との間に9人の子宝に恵まれた。そのうち、5男には「ショウジ」という日本名を付けた。理由を尋ねると「私は日本人だから、子どもにも日本名を付けた」。パシータさんはさらに孫の一人にも「スミ」という日本名を与えた。

 そのスミさん(31)は、自分の娘の一人(パシータさんのひ孫)に「アオイ」と日本名を付けた。他にも、孫の一人ベネディクトさん(38)は、技能実習生として日本就業経験を持ち、次女の孫であるアルケイシャちゃん(8)はいつか日本で学ぼうと日本語を独学で勉強している。

 20年ほど前に父の遺骨を見つけて実家の近くに移し、天国の父に思いをはせ続けてきたというパシータさん。自身のアイデンティティーについて聞かれると、「わたしはメスティソ(混血)だが、私の父は日本人だ。私の心は日本人だ」と語る。そういうパシータさんの願いは、「日本政府から日本人として認められ、日本に行くこと」。

 その願いは、「父は私を愛してくれた」という記憶と深く結びつき、そして日本の父から受けた愛は、日本への愛着となって子孫に受け継がれていた。

 

 ▽「問題が消滅してしまう」

 パシータさんは最も就籍が困難な身元未判明者だ。証拠や書類がある残留二世から国籍の確認や回復がなされていった中、現在も無国籍のままの当事者は、戦火での書類の消失や、身分隠しのための処分によって、十分な物的証拠が残っていない身元未判明者が多い。また、多くの移民一世が結婚した少数民族には、婚姻や出生を登記する慣習がなかったという事情が重なることもある。

 こうした戦争による被害や先住民の慣習などによる書類の不足は、二世本人の責任に帰すべきものではなく、人道的な考慮の対象となるべきことであるはずだ。国連高等難民弁務官事務所(UNHCR)は2021年に残留日系人を「無国籍のリスクある集団」に指定。比に住むインドネシア系無国籍者問題を解決した前例を参考に、日比両政府に対し、合同委員会を設置して当事者の意思に沿った国籍認定を行うことを勧告している。

 日本外務省による残留日系人実態調査事業を引き受けながら、20年以上日系人の国籍回復支援に取り組むPNLSC。その代表である猪俣氏は、現在行っている家裁への就籍申請を通じた国籍回復では、「全員の救済が間に合わず、問題が解決する前に消滅してしまう」と危惧する。

 「ここから先は、特措法のようなもので政治決着しないと、明らかに全員の救済はできない。立法で解決できないかいま働きかけを行っている」という猪俣代表。PNLSCが長年訴えてきたのは、日本政府が一時帰国や身元探し、国籍回復を支援する中国残留邦人等支援法を改正し、フィリピン残留日本人二世も対象に加えることだ。

 ただここまで時間が経過してしまっていると、特措法・法改正が実現したとしても、高齢のため、全員が一時帰国できるわけではないステージに入ってしまっている。「とにかく時間がない。今は法務省の力を借りて迅速に解決する可能性も模索している」という同代表。

 今回のホセアバドサントス町訪問中にも1人、残留2世が国籍回復を果たせぬまま亡くなったとの連絡が入った。すでに戦後79年が経ち、一人一人が世を去っていく。残された時間が迫る中、戦後忘れ去られてきたフィリピンの「同胞」の無国籍問題を解決するためには、従来より一歩踏み込んだ政府による対応が求められている。(終わり)

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