「いま民主主義守る戦いを」 マリア・レッサ氏ハーバード記念講演
マリア・レッサ氏がハーバード大で講演。SNSが「民主主義を破壊」する中で、人々の間の信頼を回復するための戦いに身を投じることを訴えた
米国マサチューセッツ州ハーバード大で米時間23日、比オンラインメディア「ラップラー」の共同代表で、2021年にノーベル平和賞を受賞したマリア・レッサ氏が卒業生約3万人を前に記念講演を行った。世界のリーダーを輩出する同大の卒業式記念スピーチにはこれまで、「ハリー・ポッター」シリーズ作者のJKローリング氏(2008年)、映画監督のスティーブン・スピルバーグ氏(2016年)、フェイスブック(現メタ)創立者・現CEOのマーク・ザッカーバーグ氏(2017年)、公民権運動「ビッグ・シックス」の一人としてキング牧師らと共に運動を主導した故ジョン・ルイス米下院議員(2018年)、ドイツのメルケル首相(2019年)、ワシントンポスト編集長でピューリッツァー賞受賞者のマーティン・バロン氏(2020年)など、各界を代表する錚々(そうそう)たる人物が招かれてきた。その中に今回名を連ねることになったレッサ氏は、ネット上の攻撃や法的「弾圧」にさらされる自身の経験を交え、世界中の人々がSNSに影響され、分断が拡大する現代の危機を訴えた。
▽SNSで劣化する民主主義
レッサ氏は冒頭、「この講演の原稿はノーベル賞を受賞した2021年より書くのが難しかった。2021年以降、世界はますます悪化しているからだ」と発言。「われわれはディストピアSF小説の世界に生きている。コロナ禍がわれわれをオンラインの仮想世界に押し込んだが、それが事態を悪化させ、紛争や暴力、戦争の引き金となり、テクノロジーがそれを加速させた」と強調した。
特に、世界で最もSNSに時間を費やしていると報告される比について、「米国の旧植民地であるフィリピンは、ソーシャルメディアの培養皿だった」と形容。ドゥテルテ政権期を念頭に、「極めて重要な6年間、比国民は世界で最も長い時間をオンラインとソーシャルメディアに投じた。そしてわれわれは米国IT企業の実験場となり、彼らのプラットフォームの設計は情報戦争の中で権力と金によって悪用された。TikTokが参戦して状況はさらに悪化した」と述べた。
そして「この戦術は米国にも適用された」とし、2016年に起きたトランプ前大統領の大統領選の勝利、2021年1月6日のトランプ氏支持派による米議会暴動へのSNSの影響を指摘した。
▽イメルダ夫人より多い保釈金
パレスチナ・ガザ地区を支援する学生運動の本拠地となったハーバード大から講演の招待を受けたことで、「反ユダヤ主義者だ」と攻撃され、一方でヒラリー・クリントン氏と同じステージに立ったことがあったことでも攻撃を受けているというレッサ氏。ドゥテルテ政権が誕生した2016年の状況について、「朝食代わりに90件の憎悪と脅迫のメッセージが届いた。自分が標的にされたら笑うしかないのだが、私はCIAの工作員であり、共産主義者だということにされていた」と振り返った。
そんな中、世界中で「ソーシャルメディアでジャーナリスト=犯罪者というイメージが拡散し、われわれに対するボトムアップの攻撃が始まった」。それに「法律の武器化」が続く。「2019年、私は1カ月で2回逮捕され、3カ月に8回保釈金を支払った。逮捕に対応する手続きを終わらせたと思ったら、10件の逮捕状を受け取った」と回顧するレッサ氏。「ラップラーと私は、イメルダ・マルコス夫人が汚職で有罪判決を受けたより多くの保釈金・保証金を支払った」と明かした。「靴をたくさん所有していたイメルダ夫人を思い出せますか」と会場に問いかけると、聴衆は笑い声が上がった。さらにレッサ氏は、「ある時点では(私は)100年以上の拘禁刑に直面していた。今日ここに来るために最高裁判所からの許可証が必要だった」と現在も続く法廷闘争の厳しさを語った。
▽民主主義が独裁者選ぶ
「声を上げると攻撃を受ける。それで、多くの人が沈黙する選択することを選択している。これを『萎縮効果』という」。そう強調するレッサ氏は、SNSが「人々の不安や怒りを拡大するよう設計されている」と指摘。「われわれ個人個人のデータ分析の上に構築されたこの『怒りの経済』は、世界を変容させ、人類の最悪の部分の発現を奨励している」と批判した。さらに「オンラインの暴力は、現実の暴力をも引き起こす」と指摘。「国連そしてメタ自身の認めるところによると、ミャンマーでの虐殺は、フェイスブックにより油を注がれていた」とし「ウクライナで、スーダンで、ハイチで、アルメニアで、そしてガザで多くの人々が(オンラインで増幅した憎しみによって)命を落としている」と訴えた。
そうした中で、「2023年世界民主主義指数は史上最低水準に落ち、現在世界の71%は権威主義下で暮らしている」と世界の実情を説明。「われわれは非自由民主主義的な指導者を、民主的に選出している。こうして誕生した強権的指導者は、盟友らと腐敗政府(クレプトクラシー)を形成する」との見方を示した。その上で、「問題は、ルールに基づく国際秩序がまだ生きているかどうかだ」とし「あまりにも多くの権力者が処罰から逃げおおせ、それが民主主義を破壊し、信頼を破壊することでわれわれを分断している。2016年から叫んできたが、今改めて言いたいのは『ファシスト達が来ている』ということだ」と警鐘を鳴らした。
さらに、フェイスブックの創設者ザッカーバーグ氏に言及。「7年前、ここで講演したザッカーバーグ氏は『自分の目的は全世界をつなぐことだ』『早く動いて既成の物事を壊せ』と言った。しかし、これは民主主義を破壊した。私は、ロドリゴ・ドゥテルテ大統領だけでなく、ザッカーバーグ氏と戦っていた。そして、より強力なのはザッカーバーグ氏だった。なぜなら、かれは大手IT企業と共に、世界をコントロールしているからだ」と非難した。
▽「戦場へようこそ」
こうした現状をレッサ氏は、「いま、われわれは認識さえできない危機に直面している」と説明。「いまやディープフェイクのせいで自分の目や耳を信じることもできない。チャットボットのせいで、コミュニケーションを取っている相手が人間かどうかさえ信じられない」とし、「テクノロジーにより感情が操作され、われわれの生体機能がハックされはじめている中、われわれは、何が事実なのかをどうやって知ることができるだろうか」と問題を提起した。
さらに、SNSの情報に関する安全対策について、「イーロン・マスク氏はツイッターを買収した後、信頼・セキュリティーチームを解雇した。メタとグーグルもそうしたスタッフを削減した。われわれの民主主義を守るための安全対策はより少なくなっている」と解説。こうした状況下で「事実の代わりに、インターネットのエンシッティフィケーション(汚物化)が全盛を迎えている。つまり、より多くのごみ情報、プロパガンダ、情報操作がわれわれの感情のスイッチを押している」とし、企業・政府による情報に関する安全対策・規制の必要性を強調。オンラインサービス事業者の免責事項を定める1996年米国通信品位法第230条の撤廃を訴えた。
そうした状況の中、「主体性、そして独立の思考を保つためには、より苦しい奮闘を余儀なくされることだろう」と予想するレッサ氏。卒業生の前で、「事実なくして、真実なし」「真実なくして信頼なし」「この三つなくして、現実の共有、法の支配、民主主義は成り立ち得ない」というモットーを紹介し、「信頼を取り戻す戦いが始まろうとしている。いま民主主義のために戦わなければ、未来のリーダーである皆さんが、将来に率いるべきものはほとんど残らない」と訴えた。講演の最後は「戦場へようこそ」との言葉で締めくくった。(竹下友章)