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1月10日のまにら新聞から

「比日文化理解に不朽の功績」 宝冠白蝶章・サニエル博士死去

[ 1493字|2024.1.10|社会 (society) ]

フィリピンにおける日本研究の大家であるホセファ・サニエル博士が死去。享年98歳。比日理解に多大な貢献

ホセファ・サニエル博士(中央)。左は同博士の教え子の1人である元朝日新聞マニラ支局長の大野拓司氏、右はフィリピン大アジアセンター所長も務めたアンジット・ライ元教授=ジャーナリスト・大野拓司氏提供

 比での日本研究の第一人者で、宝冠白蝶章(1986年)受章者のホセファ・サニエル博士が昨年12月21日に死去していたことがこのほど分かった。享年98だった。同博士は戦争の傷跡がなお生々しい時代に日本研究の道を志し、戦後日本企業の経済進出のため新たな反日感情が噴出した70年代を含め、世界的に引用される研究を次々発表したほか、旧フィリピン大アジア研究所(現アジアセンター)の所長などを歴任。日本研究をフィリピン大大学院の学位プログラムに発展させるなど、比での日本研究・教育をけん引した。

 在比日本国大使館は9日、追悼の声明を発表。「博士は揺るぎない日本研究への取り組みにより、『日本研究の大家』との称号を得ていた。比日の文化理解の促進に対する莫大な功績は、比日の学問の世界に不朽の足跡を残した」とその貢献をたたえた。

 ▽比に渡った「志士」を研究

 米国総督統治時代の1925年に生まれたサニエル博士は、戦後間もない49年に比大教育学部を学業成績優秀者として卒業。フルブライト留学生としてシカゴ大学に留学し、53年に同大で歴史学修士号を取得。その後米国ミシガン大で極東研究を専攻し、61年に日本研究で博士号を取得した。

 帰国後、博士は19世紀後半を中心とする近代日本とフィリピンとの関係に関する研究を発表。博士の著作は日本語にも翻訳された。博論に基づく「1868年から1898年にかけての日本とフィリピン」(1963年)は、米国の出版社で再版されるなど広く世界中で引用される研究となった。当時欧米諸国には知られていなかった、19世紀末に比に渡り独立革命を支援した日本人「志士」の動きを明らかにしたことで、新たな研究領域をひらいたと高く評価された。

 同博士は63年にフィリピン大史学部教授、67年に豪州ニューサウスウェールズ大でアジア人初のリバーヒューム客員研究員に就任。69年に比外務省アジア担当参与になり、71年にはロベルト・レイエス官房長官代行とともに訪日し、比日の政府・学術交流を推進した。退官後の93年からはフィリピン大名誉教授となっていた。

 ▽知日派の育成

 またサニエル博士は、教育者として日本に理解のある人材を多く育成した。その1人は、日本大使館広報文化センターに1967年の開設時から務め、厳しい対日感情があった当時の比社会で日本文化の宣伝や、日本人学校の開設などに尽力した元大使館職員のセシリア・トレンティーノ氏。同氏はその功績で2004年に旭日双光章を受章している。

 トレンティーノ氏はまにら新聞に対し、「私はサニエル博士から日本学を教わり、卒業後にさらに日本学を学ぶため早稲田大学に留学できたのも博士に推薦をいただいたため。私と日本とのつながりはサニエル博士のおかげであり、2004年に旭日双光章を受章した際のあいさつの折も、サニエル博士へのお礼を申し上げた」と追悼コメントを寄せた。 

 サニエル博士が開所に大きく貢献した現フィリピン大アジアセンターのフィリピン研究専攻で博士号を取得し、比日にまたがる研究・出版プロジェクトにも関わってきたフィリピン国立ポリテクニック大文芸学部のロメオ・ペニャ学部長は、まにら新聞に対し「アジアセンターの卒業生、比日関係に関心を持つ1人としてサニエル博士の訃報に接し悲しく思っている。私も博士の日本に関する著作から多くの貴重なことを学び日本への親しみを深めた。それだけでなく、博士のアジアセンター所長としてのフィリピン研究に対する貢献も計り知れないものがあった」と功績を振り返った。(竹下友章)

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