「日刊まにら新聞」ウェブ

1992年にマニラで創刊した「日刊まにら新聞」のウェブサイトです。フィリピン発のニュースを毎日配信しています。

マニラ
29度-23度
両替レート
1万円=P3,730
$100=P5855

12月31日のまにら新聞から

「歴史伝える責任がある」 日本国大使・越川和彦氏×コラムニスト・浅沼武司氏

[ 7949字|2023.12.31|社会 (society) ]

越川比日本国大使とまにら新聞コラムニストの浅沼氏が対談。これからの比日友好の発展のために、忘れてはならない歴史について語り合った

対談する越川大使(右)と浅沼氏(左)=12月、大使公邸で竹下友章撮影

 2023年の比日関係は、比日両首脳の相互訪問、比初の首都圏地下鉄や南北通勤線など日本支援巨大プロジェクトの大きな進ちょく、初の政府安全保障能力強化支援(OSA)の適用などをはじめ、政治経済・安保分野でまさに「黄金時代」という言葉にふさわしい進展に彩られた。「黄金時代」の今だからこそ、これからの友好関係の深化のために振り返らなければならないものとは、いったい何か。各機会に比日友好に尽力する「歴史的責任」を強調する越川和彦駐比日本国大使と、本紙コラム「行雲流水」で比日関係史を綴(つづ)る浅沼武司氏が、これからのために忘れてはならない比日友好関係の淵源について意見を交わした。 (竹下友章)

 ―浅沼 本日はご多忙な中ありがとうございます。今回の対談テーマは「日比の友好親善」と設定させていただきました。日比の友好親善ということで、まず私の方から一番目に挙げさせていただきたいのは、ご皇室のお力です。

 天皇陛下は毎年行われる全国戦没者追悼式では必ず、日本人だけでなく全ての戦没者に哀悼の意を表されて、「深い悲しみとする」と仰っています。昭和天皇陛下は、全ての戦没者に思いを致されている中でも、特に100万人以上の比人の命を奪い、国土を破壊し、50万人以上の日本人が亡くなっているフィリピンに対し、深い思いをお持ちではなかったかと拝察します。

 日本人戦犯を1953年に恩赦したキリノ大統領は、同年再選をかけた大統領選に落選されますが、まだ国交正常化がされていない1955年、当時の鳩山一郎首相の個人的な招待で来日されている。その際、何らかの方法で昭和陛下が感謝の気持ちをお示しになったらしいんですね。戦後の日比の友好親善の原点はその辺にあるのではと思っています。

 1956年の国交正常化から数年しか経っておらず、まだ非常に大きな反日感情が残っていた1962年、戦後始めて当時の皇太子ご夫妻(現上皇・上皇后両陛下)が昭和陛下のご名代としてフィリピンに訪問された。当時はマカパガル大統領の時代でしたが、皇太子ご夫妻がご訪問された当初、比の世論は「なんで日本の皇太子が来るんだ」という感じだったらしいんですね。ところが毎日ニュースでお振る舞いを見て、フィリピンに対し深い思いを持たれているのが伝わると、日を追うごとに人気が出て、「プリンス・アキヒト!」「プリンセス・ミチコ!」と大フィーバーになった。それが日比友好親善の大転換になったのではないかと。

 その時、当時の皇太子殿下は陛下のご名代という公式な立場でしたし、情勢からいって直接キリノ元大統領のご遺族に直接お会いにはなれなかったのですが、日本と関係が深かったエミリオ・アギナルド初代大統領を訪ねられ、昭和陛下による長寿祝いを伝えられた。当時90歳を超え病弱になっていたアギナルド元大統領は涙を流して喜んだといいます。

 代々親日家のノイノイ・アキノ大統領は、2013年のスーパー台風ヨランダの襲来時、日本が自衛隊を中心に官民合わせた緊急援助や災害復興に取り組んだことに、感謝の気持ちを大変持っておられて、2015年に来日したときに当時の天皇陛下にお目にかかり、ぜひ自分の在任中にもう一度比を訪問してほしいと頼まれたらしいですね。日比国交正常化60周年(2016年)も重なり、陛下は最後の訪問地をこの国に選ばれた。あの時私もおりましたが、大歓迎でした。そのとき、キリノ大統領のご遺族に会われて、お礼を述べられた。その時に陛下は、キリノ大統領の遺族から「ただ大統領は恨みの連鎖を断ち切りたかったのだろう」という説明を受けたらしいんですね。陪席していた当時の自民党の高村正彦副総裁は感激し、日本に帰ってすぐにキリノ大統領の顕彰碑を建てようとしてできたのが、東京の日比谷公園にある碑だと聞いております。

 それに率先して資金協力をしてくれたのが、日本人戦犯の恩赦を嘆願し続けた画家・加納莞蕾氏のご遺族が運営する「加納美術振興財団」です。加納家は、莞蕾氏の娘である加納佳世子さんをはじめとして、今もキリノ家と親しくお付き合いになっている。

 ―越川大使 私がフィリピンに赴任して何を一番重視してきたかというと、歴史を忘れないということでした。フィリピンには120年前に日本人が移民を始め、多大な努力でいい関係を築いていたが、それが戦争で非常に大きなダメージを受けてしまう。上皇・上皇后両陛下も述べられていますが、それをしっかり心に刻み、忘れてはならないということ。その上で、日比外交関係全般を見、促進していくということが、基本中の基本と思っています。

 2016年の天皇・皇后両陛下のフィリピンご訪問のことはよく聞いており、私も着任後最初に行ったのは、国立英雄墓地にある無名戦士の墓標への献花でした。比国軍の儀仗兵も来る正式な形で献花をさせていただいた。着任後初の戦没者慰霊祭はコロナ禍により現地で開催できなかったんですけれども、別の機会に妻とカリラヤ日本人戦没者慰霊園に献花をさせていただきました。

 今の日比関係は黄金時代といわれ、非常に良い信頼関係を築き上げています。もう国交正常化70周年を眼の前にしますが、これまでには、キリノ大統領はじめ多くのフィリピンのリーダーたちが元首、政治家としての判断をされてきました。大使公邸の玄関には二つ写真が飾ってあります。一つは1962年の当時の皇太子殿下が初めて比を公式訪問された時のもので、アギナルド元大統領とバルコニーから一緒に手を挙げておられるお写真。もう一つはその際に開催されたマカパガル大統領主催の晩さん会の写真。これは実はお嬢さんのアロヨ元大統領から寄贈していただいたもので、「あの晩さん会で踊ったのよ」と仰ってました。さらに公邸のピアノの上には、1953年にキリノ大統領が米ボルチモアの病院から出された恩赦の声明文の原文が展示してあります。これはキリノ家のコリー・キリノさんから頂いた。戦後の日比関係の原点として展示しています。

 天皇陛下が仰ってきたように、日本人として過去を心に刻んで忘れてはいけない。それを次の世代にきっちりと伝えていくことが、日比のさらなる発展に非常に重要な点だと思っています。フィリピンの要人からは、過去のことを取り立てて言われたことはほとんどありません。逆に、「いやいやそれは済んだことだから」と言われることもある。多くの方が犠牲になったロスバニョスに行き献花をしたりしていますが、それはフィリピンの方から言われたわけではなくて、われわれの気持ちとしてやっている。

 大切なのはちゃんと伝えていくこと。伝えないと若い世代は分からない。若い人は勉強しないのではなく、われわれが伝えていかないから分からない。そういうことで私なら大使としての立場、浅沼さんならコラムニストとして発信をしていくというのは、われわれの義務だと思う。それによって日本とフィリピンの親善につがなり、もっと広く言えば、戦争を繰り返さないということにつながっていくと思っています。

 キリノ大統領の恩赦から今年で70周年を迎えました。それに当たって、関係者にお願いしたら、マニラ日本人会や、フィリピン日本商工会議所含めて多くの方が7月13日に国立英雄墓地に集まってくれました。雨の中でしたけれども、比国軍の儀仗兵も来て、日本側の気持ちを汲んでくれ、きちっとした正式の対応をしてくれた。その後モンテンルパ市に行き、皆様にスピーチをしていただいた。その中で私も申し上げましたが、キリノ大統領の「憎しみを後世に継承せず、憎しみの連鎖を断ち切る」という意志、ご家族を戦争で殺された大統領個人としては、「赦(ゆる)し難きを赦す」ということなんですけれども、それをされたリーダーシップ、先見、将来を見た指導者としての決断、そういったことに改めて思いを致しました。

 それと、当時モンテンルパ刑務所長だったアルフレド・ブニエさんのご子族にも来ていただいた。ブニエ所長は、お父さまを日本人に殺されたにもかかわらず、収監されていた日本人戦犯に対し人間性と敬意をもって接してくれていた。そう元戦犯の方々が証言されています。モンテンルパ市長さんにも来ていただきましたし、たいへん意義のある恩赦70周年の行事になったかと思います。

 去年12月6日には、クラーク空軍基地に航空自衛隊の戦闘機「F15」2機が親善訪問しました。その際は着陸前に比空軍戦闘機と編隊飛行をしました。実は、これはアジアの国としては戦後初めて日本の戦闘機の親善訪問を受け入れた例だったんです。このことは、戦後の厳しい時代から新しい時代に入っていること、そしてフィリピンの皆さんに日本を信頼してもらっていることを象徴していると思います。

 今年は4月10日でしたが、「死の行進」を追悼する勇者の日に、バタアン半島の国立霊廟(れいびょう)でマルコス大統領、米国のバリアバ臨時代理大使と一緒に献花をしました。その式典で私が申し上げたのは、81年前ここで熾烈な戦闘が行われ、日本と米国・フィリピンが敵同士として戦闘し、多くの犠牲者が出たと。それが81年後の現在、この3カ国は同盟国・同志国として、国際法に基づき南シナ海そしてインド太平洋の安全と安定のために非常に緊密に協力できていると。戦後長い努力を経て、これだけいい関係を築けたということは、当時の犠牲者に対してわれわれの世代ができる最良の報告ではないかと申し上げました。これをしっかり、次の世代に引き継いでいかなければと思っています。

 ―浅沼 モンテンルパから日本人105人が釈放された当時、私は中学2年でした。よく覚えています。大騒ぎでした。それで新聞も、放送が始まったテレビも、横浜にですね、何万人という日本人が押し寄せてのぼりを上げて大歓迎し、日本中が喜びました。その前に渡邉はま子さんの「あゝモンテンルパの夜は更けて」(1952年)という歌が流行って、彼女自身も、こちらまで来られました。中学時代でしたから鮮明に覚えています。

 私の人生は、戦争というものに大きく支配されていまして、いまだにあの戦争のトラウマから逃げ出せない人生を今日まで送ってきました。フィリピンに対してとても大きな被害を出して、日本人も戦域別で一番多くの犠牲者を出した。それでフィリピンという国から今日まで離れられなくてですね。

 ―越川大使 先の大戦ではフィリピンで多くの無辜(むこ)の人々が犠牲になった。そして戦後になって、最も苦労されたのは日系人の方々だと思うんですね。去年パラワンで13番目の日系人会が立ち上がったんです。われわれ大使館・日本政府として、NGO(フィリピン日系人リーガールサポートセンター)と一緒にやっているのは、残された日系人の方々の国籍の回復。お父さんが日本人、お母さんがフィリピンの方で、お父さんたちが戦争中に亡くなったり、戦後に強制送還されたという方が多い。そうした状況の中、当時の国籍法は日比両方で父系主義をとっていたこともあり、残された2世の中には無国籍状態で取り残された方も多くいらっしゃる。

 私もミンダナオに行きまして、90歳を越える語り部の方にお話を伺いました。終戦当時は日本人と関わりがあることが露見すると報復されたり、あるいは命を狙われる危険があった。なので日本人との関わりを全て断ち、関係書類も全て焼却して、山奥や離島に隠れ住んでいた方々がたくさんいるわけですね。そうした方々はお年を召しておられて、残された時間は少ない。私どもは、花田貴裕総領事をはじめ、そうした方々の国籍回復のために役目を果たそうと取り組んでいます。

 もう一つは、日本人戦没者遺骨の収集。これもこの間、日本遺族会の水落敏栄会長はじめ約90人の方が来られて、お父様が亡くなられた各地を訪問し慰霊されました。それだけでなく、訪問先にある学校や病院に文房具や車椅子を寄付されました。こうした活動をずっとやっておられるんですね。遺族会の皆様の慰霊の旅が始まって以来、そういう活動をしてきたというのは戦後残った日本への悪印象を徐々に変える一つの重要な役割を果たしたのではないかと思います。

 遺族会の皆様との懇親会に参加しましたが、一つ朗報だったのは、お子さん、お孫さんが同行されてきているんですね。8月15日のカリラヤでの慰霊祭でも同様でした。若い世代が現地に行って、見て、聞いて、感動をして、こういうことをしっかり自分たちも伝えていかなければいけないと思いを持っておられた。こうしたことが次の世代への橋渡しになるのかなと感じました。

 ―浅沼 フィリピンでの日本人戦没者、そしてご英霊の象徴というと、やはりマバラカットの特攻隊飛行場跡だと思うんです。最初の特攻隊として飛び立った関行男大尉ら敷島隊5人のご英霊には、20数年前に私がこの国に居を移した時に最初にお参りにいきました。その後もクラークに行くたび参拝し、日本から来られる方々をご案内していました。

 そうする中で聞いたのは、大使館の防衛駐在官が制服を着て正式にお参りされたことがなかったということだったんですね。行くにしても個人的に私服で行かれたと。それが、越川大使が着任された後から、こちらにおられる防衛駐在官が制服・正帽を着用して威儀を正し、なおかつ比軍の指揮官クラスの方々や行政当局の方々とご同席されて正式に参拝されるようになったと聞きました。これは大きな転換であって、非常に良かった。

 ―越川大使 私も防衛駐在官が制服で特攻隊慰霊碑を訪問できていないという話は聞いていました。私の代になってできるようになったのは、私がどうというより、自然な流れですよね。日本の世論も変わってきた。何かあるとすぐ「軍国主義だ」という短絡的な議論が少なくなって、本質を見て議論しようという世論になってきた。そういう世論を反映し、正式に参拝できるようになった。

 私は、国が若者に特攻をやらせたこと自体は肯定していません。大きな間違いだと思っています。ただ、命をかけて行った方々の気持ちというのは、日本の知覧特攻平和会館(鹿児島県)にもありますけれども、残していった辞世の句、手紙を見ると、本当に心に迫るものがあります。本当に家族のことを思ったり、母親のことを思ったり。16歳から20歳くらいの年代の方が、責任感もあって特攻に行った。これは決して忘れてはいけない歴史です。

 もう一つ忘れてはならないのは、そうした方々の顕彰に、フィリピンの方々が力を尽くしてくれたということ。故ダニエル・ディソンさんが、まさに70年代に反日感情が厳しい中でマバラカットに特攻隊慰霊碑を建立してくれたんですね。これに私は大いに感激しました。ディソンさんのお墓にも行って献花をさせていただいた。ディソンさんが集められた遺品とか、ご自身で書かれたものも拝見しました。そこにも特攻に行かれた人の辞世の句が残っていました。生まれた子どもの顔も見ずに特攻に行くだとか、本当に涙せずにはいられないものでした。そういう気持ちを素直に、われわれの立場で顕彰することは、しなければならないことで、軍国主義とは全く異なる。慰霊碑事業を長年支援している竹内ひとみさんという方は、ボランティアでやってくれている。ですので私の方から感謝の気持を込め、慰霊碑の維持管理をされているディソンさんの息子さんと竹内さんに、在外公館長表彰を送らせていただいた。

 ―浅沼 ダニエルさんの息子さんは公邸に呼ばれて、表彰されるとなったとき、びっくりされたらしいですね。今まで大使館から自分の父親に対しても正式なものはなかったと。

 ―越川大使 そうなんですよね。お父様がご存命のうちに、政府としての何らかの意思表示をできなかったかなと思いますね。

 ―浅沼 大使に表彰されて、どれほど泉下の父上も喜んでおられるだろうかと。最近息子さんとお話させていただきましたけれども、大使公邸に呼ばれて、父親の功績に対し大使から直接お礼を言われたことが一番うれしかったんだと、涙ながらに仰ってました。こうしたことが、やっぱり相互尊敬、相互理解、将来のための友好親善のための契機になると思います。越川大使が個人としてもこの国の歴史に関心を持たれて、その上で大使としての重責を果たされてきたことが、大きな成果を生む理由になったのではなかろうかと思います。

 ―越川大使 いまも世界中で紛争が起きていますけれど、歴史をちゃんと知り、将来につなげていくことが過ちを繰り返さないために最も重要なことだと思っています。歴史を学ばないとまた繰り返す可能性があるわけですからね。そういうことが日本、あるいはアジアで二度と起きないようにする。そういう意味で歴史を学んで、その上でいい関係を築いていくと。

 私は2000年の沖縄サミットを担当していたんです。沖縄は日本で唯一地上戦が行われ、一番犠牲を払った場所。糸満市の平和の礎(いしじ)を訪れると、日本人に限らず、犠牲になった色んな国の方の名前が刻んであるんです。

 沖縄サミットの際は当時のクリントン大統領が現職米国大統領として初めて沖縄に来ました。これには、故・小渕元総理の強い思いがあった。私は当時の森総理にお使えしましたけど、「小渕元総理が思い描いた通りのサミットにしてほしい」というのが森総理の指示でした。

 われわれが子どものころは沖縄に行くにはパスポートが必要だった。そういう状態に沖縄を置いてしまったという国としての反省がなければならないですし、沖縄は米軍基地の問題などまだありますが、サミットも経て、歴史を踏まえながら、ある意味乗り越えて、発展している。日本人としてそういうことは忘れてはいけない。フィリピンとの関係でも同様のことが言えるのではないかと思っています。

 ―浅沼 私は学んできたことを日本人だけでなく、フィリピンの方にもお伝えしたいと思って、ささやかながら活動をしております。ありがたいことに、私の日比友好親善発展への取り組みに対し、賛同した若い世代も集まってくれているんです。こういう若い人たちに大使からもご激励の言葉をいただけませんか。

 ―越川大使 浅沼さんの取り組みに、若い人が参加してくれているのは敬意を表したいと思います。やっぱり知ることというのは年齢関係ないと思うんです。何が起こったか、どういう善意や志が示されたか、皆知れば感動しますしね。そういうものを伝えようという志をもった方々がボランティアでやっていただけるというのは本当にありがたいです。

 やはり草の根で、市民団体が一生懸命活動し何かを伝えていこうというのは非常に大切です。多ければ多いほどやっぱり厚みのある両国関係を築けると思うんです。経済とか外交とか安全保障は当然重要ですけれども、それだけだと二国間関係はまだ貧しい。文化交流、草の根での色んな活動、人との交流があって、全体として厚みのある豊かな2国間関係ができる。そういうものがベースにあれば、外交で若干何かあったとしても2国間関係はより揺るぎない、安定したものになると思っています。

社会 (society)