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12月26日のまにら新聞から

日本人が撮った100年前のフィリピン 元中部大教授・青木澄夫

[ 2284字|2023.12.26|社会 (society) ]

100年前、フィリピン各地で邦人写真家が撮影した写真・絵葉書300点を比日系人会連合会に寄贈

(上右)1922年のカーニバルでクイーンに選出されたVictoria II=Sun Studioが当時販売。(上左)イロゴット民族の女性たち=ダバオのMountain Studioが当時販売。(下)ダバオ日本人尋常小学校(絵葉書)=Lucky Studioが当時販売

 ダバオ市のミンダナオ国際大学で11月25日、フィリピンへの日本移民120周年および日本人の国籍回復運動に尽力しているフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)創立20周年を記念する講演会が開催された。この機会に、筆者はPNLSCに依頼し、フィリピン関連の古い写真史料300点ほどを、各地に点在する日系人会の連合体であるフィリピン日系人会連合会(イネス・山之内・P・マリャリ会長)に寄贈した。

 今から約100年前のフィリピンでは、多数の日本人写真家が活動していた。1909年末にフィリピンに在留していた日本人2156人のうち10人が、また1916年末の在留邦人2257人のうち59人が写真を生業としていたという記録がある。

 寄贈した史料の大半は、1930年代までにマニラ、バギオ、ダバオ、ホロ、ザンボアンガで、日本人の写真師が、人々やその暮らしぶり、また風景などを撮影した写真絵葉書である。

 フィリピンで最も有名な日本人写真師と言えば、山本鶴次郎だった。山口県出身の山本は1903年にマニラにわたり、写真館で修業をした。1911年にロサリオ街でSun Studioを開業したが、翌年火事に見舞われた。1913年にダスマリアス街の銀行ビルに移転。その3階に位置した写真館は「東洋一」と称された。撮影術に長けた山本は、フィリピン政府の信頼が厚く、要人たちからの撮影依頼も多かったという。1920年代から30年代にかけて、カーニバルの「女王コンテスト」の候補者や優勝者を撮影し、絵葉書にして大量に販売した。

 26年には写真材料を扱うSun Photo Supplyを開設し、35年には二つの店で日本人26名、フィリピン人45名の従業員を抱えるまでになったが、同年5月、胃病が悪化して54歳の生涯をマニラで閉じた。

 バギオで1911年に、Mountain BazaarとMountain Studioを開業したのは、福岡県出身の永富三二だった。Mountain Studioは、イグロット民族の人々の生活ぶりや戦火で失われた街並みなど、たくさんの美しい写真絵葉書を残している。

 1912年に、バギオでJapanese Bazaarを開業した早川秀雄(山梨県出身)は、アメリカの印刷会社に依頼して作成した彩色絵葉書(市内風景)を販売した。後に写真館Pine Studioを併設し、主任に山本鶴次郎のもとで学んだ古屋庄之助を迎えた。早川と息子の豊平、そして永富はバギオ日本人会の創設や日本人小学校の開設にも力を注いだ。

 1903年に太田恭三郎がアバカ(マニラ麻)栽培などのために、日本人を呼び寄せたダバオについては、元在留邦人の会であるダバオ会が、1988年に立派な写真集『ダバオ 懐かしの写真集』を残している。

 1916年ごろに日本では、『太田興業株式会社事業写真帖』が発行され、初期の入植状況を伝えている。同じころ、松岡興業はフィリピンの農作業風景の彩色絵葉書を日本で印刷し販売した。

 1926年に、ダバオの中野写真館(Daliaon Studio)は、一部を英語で表記した『ダバオ案内』を日本で出版した。その一部は今回ミンダナオ国際大学で展示された。

 同年、ダバオにLucky Studioが開業し、28年にマニラやホロで活動した荒木百三がMikado Studioを開店した。

 1921年にサンボアンガでAurora Studioを開業した小山勘次郎は、30年にダバオのSta. Anaに支店としてRizal Studioを設けている。

 ダバオの写真(1940年前後)を収めた個人アルバムには、Lucky StudioやRizal Studioのほか、日本写真館と思われるCupid Studioが撮影した61枚が収められている。その中にはミレーンJ. ガルシアーアルバノ駐日大使のおじい様の若き日の姿や、在ダバオ岩永領事夫人に招かれた地元女性グループの姿もあった。

 1920年代、葉書に直接印画ができるリアル・フォト絵葉書が日本人写真館の間で普及すると、大都市のみならず地方でも絵葉書を作成できるようになった。大手の写真館は、印刷、スタンプ、エンボスなどで絵葉書にその名を残したが、多くの写真館は無記名だった。

 写真師たちは絵葉書を商品として販売した。しかし、現在でも写真は驚くほど鮮明で美しい。人々は生き生きとして、魅惑的な自然や田園、建造物は我々を過去へと誘う。「無名」の写真師たちが残した絵葉書は、歴史を彩る貴重な史料として、一世紀を経て蘇ったのである。

 フィリピン日系人会連合会は、今後これらの写真史料を活用し、一般にも公開していく予定と聞く。日本とフィリピンの交流促進のため、同連合会へのご支援・ご協力をいただけたら、筆者としても幸いである。

 あおき・すみお 1950年長野県松本市に生まれる。74年に富山大学を卒業。76年~80年、ケニアとタンザニアの日本人学校などで助教諭を務める。80年~2004年、国際協力機構(JICA)に勤務。2004~17年、中部大学国際関係学部教授。専門は、第二次世界大戦以前に、東南アジアなどに在住した日本市民の足跡。著書に『日本人のアフリカ「発見」』、『日本人が見た100年前のインドネシア』など。終活で、海外の日本人写真師たちが残した写真史料の「里帰り」を実施中。フィリピンは、インドネシア、アフリカのセーシェル、ベトナムに次いで4か国目。

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