「日刊まにら新聞」ウェブ

1992年にマニラで創刊した「日刊まにら新聞」のウェブサイトです。フィリピン発のニュースを毎日配信しています。

マニラ
30度-24度
両替レート
1万円=P3,820
$100=P5885

12月15日のまにら新聞から

「初の親族対面に興奮」 4年ぶりの未就籍残留邦人一時帰国

[ 2145字|2023.12.15|社会 (society) ]

残留邦人2世の金城マサコさん(80)とアカヒジ・サムエルさん(81)がマニラ国際空港から日本へ出発

マニラ国際空港に到着した残留邦人2世の一行。左からオルミド・ミチコさん(アカヒジさんのめい)、金城マサコさん、アカヒジ・サムエルさん、PNLSCの猪俣代表、金城さんの5男アルマンド・アンティプエストさん=14日午前7時ごろ、マニラ空港で竹下友章撮影

 戦前に移住した日本人の子で、戦後に無国籍状態となっている残留邦人2世の金城マサコさん(80)=ダバオ市=とアカヒジ・サムエルさん(81)=パラワン州コロン町=が14日午前9時ごろ、マニラ国際空港で無事出国審査を通過し、10時発のフィリピン航空PR426便(福岡行き)で比を出国した。手続きで問題が発生した場合に対応できるように、空港では在比日本国大使館の花田貴裕公使兼総領事、山口基頼領事が付き添った。9月には既に国籍を回復している残留2世の小山ヒロコさんが日本帰国を果たしていたが、まだ国籍回復できていない残留2世の日本渡航(一時帰国)が実現したのは約4年ぶり。2人は19日まで父親の出身地である沖縄に滞在し、記者会見や県知事表敬訪問を行うほか、親族と面会、墓地訪問などを通じて父親の足跡をたどる。

 2人は14日午前7時ごろ、日系人支援を行う認定NPOフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)の猪俣典弘代表に付き添われマニラ国際空港に到着。人生で初めての国外渡航と父の故郷の訪問を前にアカヒジさんは、まにら新聞に「とてもうれしい」と高揚した様子で笑顔を見せた。同行するめいのオルミド・ミチコさんは「おじは沖縄で会う親類に早く会いたいという期待や、受け入れてもらえるだろうかという不安が交錯し、一睡もできなかった」と語った。金城さんも同様に「とても興奮している」と目を細めた。待ちきれず、その日は午前3時には目が覚めたという。

 2人は福岡で入国手続を済ませた後に那覇行の便に搭乗。那覇空港では、親族によるサプライズ歓迎が予定されている。またアカヒジさんは、親族が見つけたアカヒジさんの父親とみられる男性の写った家族写真を初めて目にする予定だ。

 ▽ギリギリの出国

 「離島の属島」であるパラワン州コロン島に、戦時中に生まれたアカヒジさんは、比でも出生登録がされていないため、準備が難航した。必要書類がそろったのは前日の夕方というギリギリのタイミングだった。

 必要書類の準備には、日系人問題が浸透せず杓子定規な対応する地方役場と粘り強く交渉を重ねたほか、司法省には無国籍者認定の申請を行った。司法省は人道上の配慮を示し、本来は本人が本省に出頭しなくてはならないところを、特別に司法省職員難民・無国籍者保護課の職員をコロン島まで派遣して面接審査を行った。司法省が出した勧告を受けて、次は外務省がパスポートの代わりとなる渡航文書(トラベルドキュメント)を発給。ただ即時に発行されるのではなく、バタンガスの印刷所で印刷されるため、渡航文書が届いたのは渡航前日の午前11時だった。同日、外務省での手続きには、花田総領事自らアカヒジさんに同行してサポートに当たった。さらに続いて、入管で指紋などを提出し、出国・再入国許可証と無国籍者としての身分証の発給を受ける手続きに入った。書類発給は予定より遅れ、アカヒジさんが記者会見に臨んだ13日の午後3時ごろは、まだ本当に翌日渡航できるか確定していなかった。午後5時半になって入管がようやく書類を発行。日本大使館もビザなど必要書類を発給した。

 ▽進む父の特定

 今回の一時帰国事業の実現は、8月の塩村あやか参議院議員=立憲民主党=によるダバオ訪問がきっかけだ。同議員は日本人慰霊祭に参加した際に金城さんに出会い、「父の顔を知りたい」という訴えを聞く。翌9月から猪俣代表と共に一時帰国計画に動き出し、10月15日には、渡航費を確保するためにクラウドファンディングを開始。同月末に猪俣代表は沖縄で会見を開き、名前と出身、職業といった断片的にしか分からない2人の父親を紹介し、情報を募った。

 すると会見の2日後には「アカヒジ/アカイジという姓はおそらく『赤比地』で、非常に珍しいものだから、わたしたちの一族に違いない」との連絡があった。その後、赤比地姓に由来のある一族に計3回集まってもらい、家系図や位牌の記録を持ち寄り、アカヒジ・サムエルさんの父親に当たる人物を探した。そうすると、1928年に現うるま市平安座島から比に渡った赤比地勲さんの存在が浮上。赤比地家の記録に残っている勲さんの妻の名前は「イリミンティーナ」で、サムエルさんの母の名前「クレメンティーナ」と酷似していた。

 アカヒジさんへの聞き取り調査によると、父の名は「アカイジ・カメタロウ」だが、勲さんの父の名は「タロウ」で、姉の名は「カメ」。タロウとカメは一族の名前にしばしば使われており、一族会議では勲さんが「カメタロウ」と呼ばれていたとしても不思議ではないとの意見で一致した。勲さんは戦前に生まれた2子(1女1男)をマニラの領事館に届け出ていたが、アカヒジさんにも姉と兄がおり、勲さんの第2子の名前とアカヒジさんの兄の名は同じ「ノボル(昇)」だった。

 さらに赤比地家が保管する資料の中から勲さんが写った家族写真も出てきており、今回の一時帰国事業を通じ、日本の親戚からアカヒジさんの就籍を後押しする資料が掘り起こされた。猪俣代表は「1世の親戚が証言してくれることも就籍に当たって重要な証拠になる」と今回の事業の手応えを語った。

(竹下友章)

社会 (society)