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10月21日のまにら新聞から

「先人が築いた歴史忘れない」 マカティ市で浅沼武司さん講演

[ 1582字|2023.10.21|社会 (society) ]

戦前生まれでまにら新聞コラムニストの浅沼武司さんがキリノ元大統領の恩赦から戦後の日比友好関係について講演

講演する浅沼武司さん=19日、首都圏マカティ市で深田莉映撮影

 日比ビジネスクラブは19日、首都圏マカティ市アヤラモール・サーキットのアイアンマン・ステーキハウスで、まにら新聞で主に戦後の日比関係についてのコラム「行雲流水」を執筆中で在比43年の浅沼武司さんを講師に招き、講演会「日比の友好関係を支えた偉人たち―105人の日本兵を恩赦したキリノ大統領と明仁・美智子皇太子ご夫妻」を開催した。浅沼さんの講演は今回が2回目。

 浅沼さんは、比で英雄とされるホセ・リサール、アンドレス・ボニファシオ、初代大統領のエミリオ・アギナルドの3人の革命家の意思を継いだ最後の世代だとして、主題のキリノ元大統領について話した。

 キリノ氏は戦後の1953年、首都圏モンテンルパ市のニュービリビッド刑務所に収容されていた、死刑囚を含む105人の日本人戦犯を釈放することを決めた人物。当時、病気で米国の病院に入院中だったキリノ氏は、自身も妻子4人や親せきをマニラ市外戦で日本軍に殺された身でありながら、病棟のベッドでマイクを持ち「(日本人を)もう許そう。希望に満ちた未来を描こうじゃないか」と比国民に呼び掛けた。浅沼さんによると、これを「いかなる反対意見がこようとやり通すべき」と一番支持しサポートしたのは、キリノ氏の弟アントニオ・キリノ氏だったという。

 浅沼さんは「カトリック教徒でありヒューマニストであった」キリノ氏の恩赦を「日本人として感謝しなくてはならないことだ」と繰り返した。

▽恩赦がつないだ日比関係

 キリノ氏の恩赦は当然、当時の明仁・美智子皇太子ご夫妻の耳にも入ったが、日比の国交がなく直接お礼を伝える機会は持てなかった。その後、ご夫妻が外交のために海外に出られた1962年11月、初の訪比が実現。まだ比国民の嫌日感情が強い中、比全国を回られる中で「その立ち振る舞いと各地で交流された比人への優しい対応を目にした多くの比人がご夫妻のファンになり、対日感情が大きく変わった」。そして「その基盤を築いたのは、間違いなくキリノ氏の恩赦だった」と浅沼さんは強調した。

 1956年に日比国交が結ばれた際にはすでにキリノ氏は他界しており、公賓としての来日は叶わなかったが、その後もフィリピン大統領と日本の皇室は交流が続いているという。

 2013年に比で台風ヨランダが未曽有の被害をもたらし、日本が大々的な災害救援を行った際には、当時のベニグノ・アキノ3世大統領が来日し明仁・美智子天皇皇后陛下に謁見。同大統領は任期中の陛下の訪比を強く望み、16年1月、天皇皇后陛下は日・比・米3国の慰霊碑を参拝され、カリラヤ日本人慰霊碑やリサール公園にも献花されたことなどを浅沼さんは順に紹介した。

▽「いち戦前生まれとして」

 16年に訪比された明仁・美智子天皇皇后陛下は、キリノ氏の遺族にも感謝の意を伝えられた。その際、立ち会ったキリノ氏の孫は「祖父はただ恨みの連鎖を断ち切りたかっただけ」と話したという。浅沼さんはこの言葉にも尊敬の念を示し、「いち戦前生まれの日本人として、常に歴史を振り返り、今、比に住んでいられていることを感謝したい。日比友好関係において先人たちが築いてきた歴史を忘れないでほしい」と訴えた。

 講演会の後には懇親会が開かれ、参加者からは「勉強になった」という声が多く聞かれた。また、ドゥテルテ前大統領と皇室の関係など、最近の日比関係の話にも花が咲いた。第1回に続いて参加した小坂元一さんは「この歴史を知ってから比人従業員に対する考え方が少し変わった」という。キリノ氏の恩赦については「当時も比人の中でも意見が分かれたのでは」とし、「今は年齢層でも考えが大きく違うと思う。若い世代はこの歴史を詳しく知らない人も多いだろうし、より文化やアニメの側面で日本と接している人が多い印象」と感想を話した。(深田莉映)

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