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7月7日のまにら新聞から

「日本の若者に見る希望」 比大のザヤス教授に叙勲伝達

[ 1332字|2023.7.7|社会 (society) ]

日本国大使公邸で比大ディリマン校のザヤス教授への叙勲伝達式が行われた

越川和彦駐比大使夫妻(両端)と、旭日小綬章を受章したシンシア・ザヤス教授(左から2人目)、アンヘロ・ヒメネス総長(同3人目)=3日夜、首都圏マカティ市の日本国大使公邸で岡田薫撮影

 首都圏マカティ市の日本国大使公邸で3日、今年春の叙勲で旭日小綬章を受章したフィリピン大ディリマン校のシンシア・ザヤス教授の叙勲伝達式が行われた。式典ではザヤス教授とメディア数社との会見の後に、同僚教育者ら招待客約30人に加え、VIPゲストである姉妹のジョセリン・ナップさん、フィリピン大のアンヘロ・ヒメネス総長、同大ディリマン校のエドガルド・ビスタン学長との間で、和やかな歓談の機会も持たれた。

 越川和彦駐比大使は「日本国天皇はフィリピン国人シンシア・ネリ・ザヤスに旭日小綬章を贈与する」と読み上げ、皇居で押された国璽と岸田文雄内閣総理大臣の署名が入った4月29日付の勲記を手渡し、胸に勲章をとりつけた。越川大使は、ザヤス教授が24歳の時に、日本政府からの奨学金を得て東京大学で学び、後に筑波大学で修士・博士課程に進み、海洋人類学・民俗学で海洋文化や海女を研究するなど「フィリピンを代表する日本研究者」と紹介。同大使館との協力の下で「多くの比人学者を日本に送る架け橋となってきた」と功績を称えた。

 ヒメネス総長はザヤス教授が比日両国の漁業文化を研究し、その共通点を探るなど、「歴史を追究し、知識の大海を言語化し、境界を越え、揺るぎのない過去を両国の間に打ち立てた」と称賛の言葉を贈った。同教授の功績を「われわれが守り、次の世代がそれを活用して両国、そしてその文化をより良く学ぶための指針となるだろう」との認識を伝えた。

 ▽日本の自然に触れ

 記者会見でザヤス教授は、過去の偉大な比人研究者の名を挙げ、「彼らの功績に自分が値するなど考えたこともなく、まさか受章するとは思ってもいなかった」と驚きを口にした。日本との関わりは16、17歳の時に、ガールスカウトの日本キャンプに参加した際、日本の自然に触れ、絞り立ての牛乳を飲んだりした経験があったことがきっかけとなり、後にフィリピン大で日本語を学んだ体験を振り返った。「フランスより先に日本での留学が決まった」と日本研究の道に進んだ経緯を語った。

 ザヤス教授は当初日本で「きゅうりとカレーが苦手だったが、今は好きに変わった」と笑った。漁村での研究の流れで海女の存在を知り、「エキゾチックなイメージで研究は考えていなかった」というが、鹿児島大の先生の勧めで、三重の伊勢神宮にアワビを納める海女について知り、「日本でも、女性が社会で重要な役割を担うオーストロネシア系の文化を見た思いだった」と回想した。

 ▽過疎化を目にし

 さらに、日本の問題点や良い点について問うと、問題点として同教授は「出生率の低下による地方の過疎化」を挙げた。その改善に果たす中央政府の取り組みの遅れを指摘。

 その一方で、地方自治体による適切な現状認識と早急な動き、自主的に地方へ移住し、事業を興して活性化に取り組む若者の存在があることで「希望を見出している」とも語った。

 また、ザヤス教授は参加者全員に向けて、個人的にも奨学金など「日本人の税金に多く助けられた」とし「本当にお世話になりました」と感謝を示した。その上で「これからもどうぞよろしく」と日本語を交え、ユーモアを込めて挨拶を締めくくった。(岡田薫)

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