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4月7日のまにら新聞から

「生きたろ」その前向きな人生 路上の絵描き細川映次さんに聞く

[ 1521字|2022.4.7|社会 (society) ]

マニラ市エルミタ地区の路上で、自ら描いた人物画を並べ、販売するなどしている日本人男性がいる

自ら描いた絵の説明をする画家の細川映次さん=4日午後、首都圏マニラ市エルミタ地区で岡田薫撮影

 首都圏マニラ市エルミタ地区の路上で、自ら描いた人物画を並べ、販売するなどしている日本人男性がいる。フィリピン在住8年目になる細川映次さん(76)は、ショッピングモール「ロビンソン」の南北を走るマリア・オロサ通りの北側、控訴裁判所の正面付近で自作の絵を数枚並べている。まにら新聞は細川さんから、路上で絵を売るに至った思いなどを聞いた。

 「少し前まですぐ隣のホルヘ・ボコボ通りで絵を並べていたが、あそこはとにかく非常に騒々しかった」と、やや落ち着いた「喧噪」の中に引っ越した。元々マニラに来たのは「ここのカオスな様子が性に合っていたから」と笑う。「店」を表す看板はおろか張り紙もない。その理由として「すぐ裏の土地の持ち主からは承諾を得ているが、露天商一般は禁じられているから」だそうで「警察の見回りも時々ある」と明かした。

 細川さんは神戸出身だが、父親が満州鉄道で働いていた関係から、第二次世界大戦後の1946年に、生後7カ月で「満州」から引き揚げてきた。細川さんと絵との出会いは美術部に所属していた高校生のころ。卒業後も20歳まで絵の専門学校に通い、その基礎を習得するも、以来長らく絵の道から遠ざかってしまう。実生活ではスーパーマーケット大手のダイエー(現イオングループ傘下)に就職し、その後ローソンの店舗を構え、アンティークやリサイクル品販売の「昭和村」を経営するなど「約15年周期で職を変えてきた」。絵は描いていなかったが、目利きとして絵も同時に扱ってきた。

▽コロナ禍で生活の糧失う

 細川さんが渡比を思い至ったきっかけは、昭和村を開いていた時期に、日本から比のオークションに商品を出品してきた経験があったからだった。同市サンタメサ地区で飲食店兼バー、スパの営業に携わったこともあったが「新型コロナでせっかく順調に行き始めていた仕事が全て立ち行かなくなった」と言う。その一方で、6年前から比人の絵描きに師事し、絵画教室に通い始めていた。特にコロナ禍となり、比では65歳以上の外出が禁止とされた期間中、「絵を描くことが楽しくて、寝る間も忘れて没頭した」。

 主な作業場は、一家5人で生活するエルミタのコンドミニアム一室の小さなベランダだ。家のあちこちに自作の絵が飾られ保管されてもいる。「元々前衛的な抽象画が好きで、若いころはそうした絵を描いてきた。まさか自分が今こうして人物画や似顔絵を描くとは思ってもいなかった」とはにかむ。人物画のモデルはフェイスブックで見つけた見ず知らずのアフリカ系の女性らが多く、プロフィール写真などを元に描いた作品を「本人にシェアして驚かれることもある」と話す。

▽誰かに絵を見てほしい

 それまで家で量産してきた作品を路上に持ち出した理由を尋ねると「日本人との関係も絶たれた生活の中、ひたすら絵に熱中していたが、自分の絵を誰かに見てほしい。それがきっかけになって、絵描きをはじめいろいろな人との交流が持てて繋がれたら」と胸の内を語った。「人に評価してもらうことで、自分もまた上達していき、意識も変わる」と前向きだ。

 一方で、カンバスは小さいものでも約200ペソ、絵の具は一色350ペソもする半面、絵はなかなか売れない。「カンバスは時に前の絵の上に新たな絵を描くこともある」と細川さんの生活は決して楽ではない。それでも、午前中は自宅で絵に向き合い、日差しの関係で正午から4時間ほど、毎日路上に向かう。コンドミニアムに付属するプールで泳ぐ運動も欠かさないという。「子どもがまだ幼いこともあってか『生きたろ』との執念は人一倍強いかもしれない」と持ち前の柔和な笑みを覗かせた。(岡田薫)

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