「日刊まにら新聞」ウェブ

1992年にマニラで創刊した「日刊まにら新聞」のウェブサイトです。フィリピン発のニュースを毎日配信しています。

マニラ
33度-25度
両替レート
1万円=P3,780
$100=P5880

3月3日のまにら新聞から

比から生まれ出でし球界の流星 東京巨人軍で活躍のリベラ選手

[ 2007字|2022.3.3|社会 (society) ]

1939年、巨人軍で活躍した比人のアティラーノ・リベラ選手。マニラ市街戦で日本軍に殺害される

巨人軍でプレーしたリベラ選手の活躍を伝える当時のザ・トリビューン紙の記事と写真=「フィリピンのスポーツ史」フェイスブックより

 今からちょうど77年前の1945年2月3日から3月3日にかけて旧日本軍と米軍を主力とする連合国軍との間で起きたマニラ市街戦。この戦闘でマニラは第2次世界大戦ではポーランドのワルシャワに次いで世界で最も悲惨な破壊がもたらされた都市と言われ、マニラ市民約10万人が追い詰められた日本軍による虐殺や連合国軍による砲撃などで亡くなったと言われている。このマニラ市街戦の比人犠牲者の中に、戦前、フィリピンの野球選手として活躍し、巨人軍からスカウトされて日本でもプレーしたことがあるアティラーノ・リベラ選手がいた。まにら新聞のイグナシオ・ディー記者が1月11日と2月18日、2回にわたりフェイスブックメッセンジャーで現在、米国に住むリベラ選手の娘、アルマ・ガロビラスさん(84)にインタビューした内容を基に、リベラ選手のかつての活躍と戦争に翻弄された生涯を紹介する。

▽娘の誕生日に起きた悲劇

 1945年2月10日、マニラ市に暮らすリベラ家は娘アルマ・リベラの7歳の誕生日を迎え、食卓にはお祝いごとに欠かせないプト(もち米の蒸しパン)が用意されていた。しかし、突然、平和な日常が破られた。数人の日本兵がリベラ家を訪れ、アルマの父を連れ出したのだ。そして、家の外で何発もの銃声が響いた。

 次の瞬間、日本プロ野球・東京巨人軍で活躍した唯一のフィリピン人選手、アティラーノ・リベラ氏は遺体となって路上に横たわった。遺体はリベラ家に運び込まれ、3日後に埋葬されたという。

▽巨人軍からスカウトされる

 野球選手としてのリベラ氏の活躍は比でも紹介されている。フェイスブックサイトの「フィリピンのスポーツ史」には1939年1月、リベラ氏がマニラ税関チームの選手として、マニラ遠征中の巨人軍と対戦したことが記されている。「ビッグボーイ」とあだ名されたリベラ氏は、リサール球場で行われた2試合に出場。名投手として一世を風靡したスタルヒン選手をはじめ巨人軍の投手陣から4割以上の打率を残し、その実力を見せつけた。1939年4月12日のトリビューン紙によるとリベラ氏の活躍は巨人軍の市岡代表に感銘を与え、市岡氏は東京に戻るとすぐに電報で東京巨人軍への入団をオファーしたという。

 来日したリベラ氏は巨人軍に入団。背番号20を与えられ、6番打者の中堅手として1939年のシーズン76試合に出場。8月24日の対名古屋金鯱軍戦での巨人軍史上初の満塁ホームランを含む6本塁打、打率.268、打点42の成績を収めた。

 同年12月、リベラ氏は再び来比した巨人軍が比のカンルーバン・シュガーバロンズと対戦した練習試合に出場。巨人軍が4―0で快勝した試合で、リベラ氏はヒットで出塁、先制のホームを踏み、守備ではセンターで5つの打球を処理し比ファンから絶賛された。しかしリベラ氏は翌1940年の契約更改を行わず同年限りで巨人軍を退団した。結局、比ファンの思いとは裏腹にこの試合がリベラ氏最後の試合となった。流星のような輝きの軌跡を残してリベラ選手は巨人軍のユニフォームを脱いだ。

▽日本人女性からシューズの贈り物

 父に誕生日を祝ってもらうはずだったリベラ氏の娘アルマさんは父を失った後、親戚の家に避難したという。「日本軍は家の近くのリサール記念コロシアムにいた。それにアメリカ兵も近くにいた」。アルマさんと母、そして姉のエルビーさん、ノーマさんは戦争を生き延びた。

 アルマさんは父親のことを「180センチメートル近い長身で、体格がよく、ハンサムだった」と記憶している。「父は私を自転車に乗せて、アラバストロ通りの家を出てリサール記念館などに連れて行った」と彼女は回想した。

 日本と縁が深かったリベラ氏は巨人軍入団の前年1938年、生まれたばかりのアルマさんを身内に預け、バレボール比代表チームの選手だった妻(アルマさんの母)の極東大会出場に同行し、8カ月間日本に滞在していたこともあるという。

 アルマさんもまた、姉らとともにバレーボール選手として活躍。比の代表に選出されたこともあるという。「父の友人でエツコさんという日本人女性がミズノのシューズを定期的に送ってくれたことを思い出す」と語る。

 まにら新聞の取材に久しぶりに父親を語ったアルマさんだが、「以前、読売巨人軍が記念事業のために来比した際にも、父の野球人生の思い出を語った」と話し、父親の在りし日の姿を思い起こすことを楽しんでいるかに思われた。

 リベラ氏は1939年に日米間の緊張の高まりを危惧して巨人軍を退団したともいわれている。妻と幼い娘たちの安全を優先しての選択だったのだろうか。リベラ氏の死から77年。リベラ氏の巨人軍入団前年に生まれたアルマさんは現在84歳。姉のノーマさんとコロラドに暮らしている。(イグナシオ・ディー、渡辺誠)

社会 (society)