両陛下に寄せる思い2
「バタアン死の行進」を歩いた退役軍人2人が語る、戦中の出来事と両陛下訪比に対する思い
ビサヤ地方レイテ州タクロバン市内のサリサリストア(小規模雑貨店)の奥にひっそりと建つ簡素な造りの家。トタン屋根とベニヤ板の間に所々開いた隙間から、日の光が差し込んでいた。息子家族と一緒に住むエドゥアルド・ベルムドさん(92)は太平洋戦争中、比米両軍捕虜約8万人と共に「バタアン死の行進」を歩き、命からがら生き延びた。
「高齢となった退役軍人には車いすや薬など物資の支援も必要」と訴えるベルムドさんの心底には、決して裕福とは言えない生活苦があるのかもしれない。ベルムドさんは、台風ヨランダ(30号)被災後に日本政府から寄付されたという歩行器を使ってベットから体を起こし、近くに置かれた椅子へとゆっくり体を移すと、戦時中の体験についてぽつりぽつりと話し始めた。
18歳で比軍隊入りした頃は、バタアンでの行進や、旧日本軍からの厳しい拷問のことなど、考えてもいなかった。比軍隊に参加した1942年、同地方パンパンガ州とバタアン州に駐屯した。
同年4月9日、旧日本軍はバタアン半島を攻略し、比米両軍捕虜約8万人を同半島から約120キロ離れたタルラック州カパス町オドーネル収容所まで移動させた。その中の1人にベルムドさんがいた。
マラリアと下痢に苦しみながらも、同日午前10時ごろ、他の兵士とともに歩き始めた。炎天下、日本兵に銃でなぐられ、蹴られながら、意識がもうろうとする中で歩き続けた。午後8時ごろ、パンパンガ州ルバオ町で意識を失い道端の用水路に落下した。
目を覚ますと、周りには誰もおらず、真っ暗の用水路の中で「もう自分は死ぬのかもしれない。家族の元に帰りたい」。そう思ったという。ベルムドさんは肩をふるわせながら右手で顔をおおい、わっと涙を流しながら、死の淵をさまよった体験を話した。
しかし戦後、60年代にマッカーサー上陸の地で行われた慰霊祭に参加した際、日本からの代表が式典で述べた謝罪の言葉を聞き、「もう日本人のことは許そう」と思ったと打ち明けた。一方で「天皇、皇后が訪比の際、陛下はフィリピン人に対して謝罪の言葉を述べるべきだと思う」という複雑な思いも吐露する。
同じく「バタアン死の行進」を歩き、旧日本軍から数々の拷問を体験してもなお「両陛下の訪比を心から歓迎し、訪問に感謝したい」と話すのは、マルセロ・ガテラさん(90)。
米軍入隊中に体験した死の行進からは途中で抜け出すのに成功したが、憲兵隊に捕まり、旧日本軍により多くの殺害行為が行われた首都圏マニラ市イントラムロスの要塞(ようさい)に収監された。逃げ出したが、またもや捕まりパサイ市で収監。そこでは、手首を縛られ天井からつり下げられ、2日間にわたって拷問を受けた。歩けなくなるまで暴行を受けたが、夜中に地を這って逃げ出した。
その様な苦難を体験しながらもガテラさんは「日本人を恨んだことは一度たりともない。戦争はそのようなものだと分かっていたし、死ぬのも怖くなかった」と言い切る。「比は日本政府からたくさんの支援を受けている。だから両陛下の訪比も歓迎」と、死の行進と拷問を体験した退役軍人の言葉とは信じ難いほどの言葉を連ねた。
そうした思いは、旧日本軍から逃げ出し、米軍に復帰後に2年半駐屯した沖縄での体験から来るという。沖縄の貧しい人たちや、崖から飛び降り集団自決をした老若男女の人骨を目にしたことがあるからだと言う。たばこ1本と引き換えに、沖縄の女性に性行為を求める米兵や比人兵に怒りを覚えていたと話す。「沖縄の女性も、他の人々も優しく思いやりがあった。仲間の愚行が恥ずかしかった。仲間を止めたが、結局、私には何もできなかった」。そう申し訳なさそうにガテラさんは話した。(冨田すみれ子)