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11月23日のまにら新聞から

ハロハロ

[ 737字|2015.11.23|社会 (society)|ハロハロ ]

 共同通信社の大先輩である濱田寛氏の「旅立ち」(10月25日)を知ったのは、マレーシア、ベトナムなどへの出張を終え、駐在地インドネシア・スラバヤに戻った直後のことだった。亡くなられた日から既に4日が過ぎていた。予期せぬ訃報で混乱する頭の中、最初に浮かんだのは、9月7日付の当紙2面掲載のコラム「ハロハロ」。濱田氏が執筆を担当した同コラムの最末尾が「(次回に続く)」と記されてあったのを記憶していたからだ。

 訃報に接し、同日付ハロハロを再検索、「(次回に続く)」の5文字をあらためて心に刻んだ。推測の域を出ないが、亡くなる約2カ月前に、資料を基に「フィリピンにおける先の戦争」を取り上げた上記コラムを書き上げ、「次回」(掲載予定は約1カ月半後)の執筆に向け、気力を高め、準備を進められていたことだろう。残念ながら「次回」がまにら新聞読者の目に触れることはない。だが、コラム最末尾に記された5文字に、「書き、伝える」ことに真摯に向き合ってこられた「記者濱田寛」の気概の一端をうかがい知る思いがした。

 もうひとつ、懐かしく思い出されたのが、50歳代はじめの「若々しい」濱田氏の姿だった。同氏は、1981年に東京国立博物館などで開催された「インドネシア古代美術展」への出展品選定、搬出のため、前年からジャカルタに長期滞在。同じ時期に駐在していた小生の家に何度となく足を運んでいたただき、時にはインドネシア美術、考古学分野の文化人を伴うこともあった。文化人の一人が約10年前に鬼籍に入った著名作家のモフタル・ルビス氏。両氏は顔を合わせるたびに、日本・インドネシア文化をめぐり、激論を戦わせていた。両氏は新たな世界で、論戦の続きを楽しんでいることだろう。合掌。(道)

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