「日刊まにら新聞」ウェブ

1992年にマニラで創刊した「日刊まにら新聞」のウェブサイトです。フィリピン発のニュースを毎日配信しています。

マニラ
30度-24度
両替レート
1万円=P3,820
$100=P5885

4月29日のまにら新聞から

名所探訪「カティプナン記念館」

[ 1471字|2007.4.29|社会 (society)|名所探訪 ]

地下に眠る革命の遺構

 フィリピン革命(一八九六?九八年)の原動力となった秘密結社カティプナン。首都圏のほぼ中央に位置するサンフアン町ピナグラバナン通り沿いにその名を冠した博物館がある。新設されたのは革命百周年の一九九六年。当時のラモス政権が独立百周年記念事業の一環として建設し、「革命記念館」と名付けた。その後、同町や国立歴史研究所の手で改装され、二〇〇六年十一月に「カティプナン記念館」と改称して再オープンした。

 展示品は約百三十点。入館者の目にまず入るのは、革命期に使われた真っ赤な旗の数々だろう。カティプナンの正式名称「カタアスタアサン・カガランガラガン・カティプナン・ナン・マガ・アナック・ナン・バヤン(最も尊敬されるべき、人民の子らの結社)」の頭文字「KKK」を配した旗や太陽から八本の光線が広がる紋章を使った旗などが入口付近に飾られている。

 さらに、比革命の父、アンドレス・ボニファシオらカティプナン幹部の肖像写真や情報漏えいを防ぐため独自の文字で書かれた秘密文書、カティプナン入会時の血盟儀式で使われた道具、革命軍がスペイン守備隊から奪ったサーベルなど「革命期の息吹」を伝える資料もある。

 展示スペース約二百平方メートルの半分以上を占めるのが、比革命の発火点とされる「サンフアンの戦い」などのジオラマだ。

 サンフアンの戦いが起きたのは一八九六年八月。ボニファシオ率いるカティプナンは同月二十九日から三十日にかけ、サンフアン町内にあったスペイン守備隊の武器庫と浄水・貯水施設を攻撃した。ジオラマはボロ(長刀)や竹やりで火器に立ち向かい、百五十三人の戦死者を出した革命闘争の模様を時系列で再現している。

 博物館の地下一帯には実は、主戦場となった浄水施設が今も埋まっている。

 同施設はスペインの手で一八八〇年から二年をかけて建設され、「エル・デポジト」と呼ばれた。規模は地表部分の面積約五ヘクタール、深さ約六十メートル。掘り抜いた巨大な地下部分を多数の沈殿区画で仕切った構造だった。ルソン地方リサール州モンタルバン町などの取水口と用水路で結ばれ、約六キロ離れた城郭都市イントラムロスなどへ飲料水を供給した。

 カティプナンによる攻撃には、植民支配を下支えする施設を奪取し「水の手」を断つ狙いがあったが、エル・デポジトは比革命後も約四十年間、浄水・貯水機能を維持しマニラ周辺住民の生活を支え続けた。

 しかし、その役割は一九四一年の日本軍侵攻を機に一変する。侵攻前、地上部分をコンクリートで固めるなど再整備を施して機能を強化した米国とは対照的に、日本軍は水を抜いた地下部分を兵舎や武器庫に改造し、人々の命を支えた施設を戦争の拠点とした。

 博物館のダンテ・オケンド館長(58)は言う。「日本軍政下、地下部分の構造は大幅に変わり、浄水施設としての機能は失われた。戦争末期には米軍機の猛爆撃にさらされたが、(旧日本軍侵攻前、米が敷設した)分厚いコンクリートで地下部分が守られた」

 戦後の五〇?六〇年代、エル・デポジトの地表部は違法占拠住民の掘っ立て小屋で埋まり、地下の施設本体へ通じる出入口はゴミ捨て場と化した。一九七三年になって、国家的史跡「ピナグラバナン(戦場)メモリアル・シュライン」に指定された後も、多数の小屋が残り、地下部分にある「比革命の遺構」への出入口は今も盛り土で封印されたまま。その姿を伝えるのは博物館に展示されている模型だけだ。 (酒井善彦)

 開館時間は午前八時?午後五時。月曜日休館。入場無料。

社会 (society)