500人の国籍回復を 調査活動が本格化
日系2世の就籍
太平洋戦争後、親と離れ離れになってフィリピンに取り残された残留日本人(日系二世)たち。その一部の十五人が十月十二日、就籍を申し立てて東京地裁の調査官面接を受けるため、集団帰国した。二日後、東京・赤坂の日本財団本部ビル会議室で開かれた「集団帰国を考えるシンポジウム」で、支援団体のNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」の河合弘之弁護士はこう報告した。
「比日系二世の救済活動で大きな動きがありました。日本財団から作業の範囲を拡大し、早期解決を目指しては、と提案されたのです。これから高齢化が進んで、もし本人が死亡したら解決どころか消滅になると指摘されました。比日系人会連合会と協力して戸籍回復支援をプロジェクトとして立ち上げる決断をしました」。
「日系二世」と呼ばれる残留日本人の身元確認作業が始まったのは戦後五十年の一九九五年。今年で十一年経ったのに、いまだに身元がわからない人は八百人近い。この間、二十八人が東京家裁に戸籍回復のために「就籍」を申し立てたが、許可が出たのはダバオ市在住の井戸端姉妹の二人(今年二月二日)にとどまっている。
就籍は、日本人と分かっていながら日本の戸籍に記載されていない人を救済する制度。家庭裁判所が就籍を許可すると、各自治体に届け出て新しい戸籍が作成できる。これまで中国残留孤児では約千二百人が就籍制度を利用して救済された。
ところが、比の日系二世の場合、立証資料の作成には大きな壁が立ちはだかっていた。戦後、日本人であることを隠して生き延び、しかも戦災で公文書などの資料が焼失している。さらに、高齢化が進んで親子関係や婚姻関係などの聞き取り作業が年々困難を増しているからだ。十月の集団帰国でも、高齢の三人が体調を崩して参加できなかった。
この戸籍回復運動に活を入れたのが日本財団(笹川陽平会長)だった。今春、戦後処理の一環事業と判断して、資金支援を申し出た。提供する資金は三年間で一億七千万円。リーガルサポート・センター関係者は「やることが半端じゃない」と強く勇気付けられたという。
八月、比日系人会連合会と協力して「戸籍回復支援プロジェクト」がスタートし、マニラ首都圏に連絡事務所を開設した。聞き取り調査と資料収集を強化するため、東京事務所の調査員を三人から五人に増員した。首都圏とダバオ市に計三人の専任調査員も常駐させた。
来春までに百人、その後の二、三年に各二百人、計五百人の就籍申立書の提出を目指す。過去十一年間の遅れを一挙に取り戻そうという壮大な目標だ。
十月に集団帰国した二家族三人に対しては、沖縄県と広島県から親族が名乗り出た。ただちに帰国を延期して現地に飛んだ三人は、初めて見た血のつながった日本人親族と手をしっかり握り合い、「会いたかった」と涙ぐんだ。集団帰国が始まって以来、初の親族対面だった。
日系二世は就籍が認められると、改正入管法で子(三世)や孫(四世)にも日本での定住ビザが取得可能になる。今年二月、晴れて日本国籍を取得した井手端姉妹の妹、早苗さん(78)は十月、二度目の帰国を果たしたが、五人の孫はすでに定住ビザを取得して日本で就労している。シンポジウムの会合で孫と一緒に記者会見した早苗さんは、「支援者のみなさんに感謝したい」と深く頭を下げた。
河合弁護士は今後の活動方針について、「楽観はできないが、よい方向に来ている。(裁判所の)事案を見る目が違ってきたようだ。三年間で五百人というプロジェクトを立ち上げたのだから、不退転の決意で進むしかない」と話していた。 (富田信吉、おわり)