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9月19日のまにら新聞から

女性解放運動に貢献

[ 692字|2005.9.19|社会 (society)|新聞論調 ]

100周年とヨラクの死

 弁護士にして人権活動家、教育者であり、官僚でもあったハイディ・ヨラクが亡くなった。彼女の死は、女性解放運動がフィリピンで産声を上げてちょうど百年目、婦人参政権が発布されてから六十八年目の記念日を迎える時期と重なった。

 女性運動団体「ラ・アソシャシオン・フェミニスタ・フィリピナ」が創設されたのは一九〇五年のことだ。女性の労働条件改善や監獄の状況改善、教育改革、売春やギャンブルなどの撤廃を訴えたのが始まりだった。この時期には「ゴタ・デ・レッチェ」と呼ばれた出産女性のケアや栄養学を普及させる組織など女性団体が数多く誕生した。

 一八年には当時の立法府であった比委員会に対し、最初の婦人参政権付与法案が提出されている。この参政権運動に女性団体が多数参加し、その後、彼女たちは連合組織「女性クラブ全国評議会」を結成、米国からの独立を訴えるまでになった。

 その後、運動の高まりを受け、独立準備政府は三六年に婦人参政権に対する国民投票を実施。全国の女性五十万人が有権者登録を行い、うち四十四万人以上が賛成票を投じた。そして、その翌三七年九月十五日、婦人参政権が正式に二十一歳以上のすべての女性に認められたのである。フランスで婦人参政権が認められたのが戦後のことであったことを考えるとこれは意義深い。

 参政権を得た女性たちは、三七年十一月の選挙でカルメン・プラナスをマニラ市議に当選させたほか、四〇年の選挙では最初の女性国会議員一人を含む計八百人の女性議員を市議会や町議会に送り出した。女性の権利拡大運動はヨラクら優れた女性政治家をこの国に多数輩出してきた。(12日・インクワイアラー)

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