ユチェンコホール
新古典主義建築のシンボル
マニラ市タフト通り沿いの軽量高架鉄道(LRT)ビト・クルス駅の北西に立地する有名私立大学、デ・ラサール大学。一九一一年に創立され、構内には白と緑を基調とした荘厳なイメージの建物が並んでいる。新古典主義と呼ばれる、十八世紀半ばから十九世紀半ばにかけ復活した古代ギリシャ・ローマの美術様式をモチーフに建設されているためだ。
構内の中庭に一歩足を踏み入れると、ひときわ重々しさが迫ってくるユチェンコホールがそびえ立つ。建物の中央部にある四本の柱は「コリント式」というギリシャ三建築様式の一つを取り入れている。
四本柱のちょうど真上には「ドン・エンリケ・T・ユチェンコホール」と浮き出た深緑色の字が目を引く。比屈指の財閥、ユチェンコ・グループを率いる同大卒業生、アルフォンソ・ティアオキ・ユチェンコ元駐日大使が亡父の名前にちなんで名付けた。
大学は研究施設拡大のためにホール建設を計画。工事を落札したのがユチェンコ氏所有の建設会社で、同氏は母校のためにと建設費三億六千五百万ペソのうち六千万ペソを寄付した
二〇〇〇年六月に着工し、〇二年八月にしゅん工式が行われた。延床面積は約一万二千平方メートル、九階建て(高さ四七・七メートル)の同ホールは二十の講義室と六つのテレビ会議室を備える。
ホール七︱九階の三階にまたがる劇場は千百人を収容可能で、アロヨ大統領が演説したのをはじめ、ピアノのリサイタルや演劇などの催しが開かれている。また、北東アジア地域の経済協力、外交関係を研究するユチェンコ・センターもホール内に設置されている。
建設に携わった技術担当者、アウレリアノ・デラ・クルスさん(40)によると、着工間もなく敷地内を掘っていたところ、旧日本兵のものと思われる遺骨や錆びた銃、軍用ヘルメットなどが見つかったという。
大学関係者によると、第二次世界大戦末期の一九四五年二月十二日、構内に駐屯していた旧日本軍は、比人修道僧十六人、一般市民二十五人を大学構内の教会などで虐殺した。事件を忘れまいと教会の入り口付近には当時の虐殺で死亡した修道僧の名前をつづったパネルが埋め込まれている。
ホールの前には「アンフィシアター」と呼ばれる小劇場がある。五段の石段からなる客席に囲まれ、中央部分を緑色の芝生が色鮮やかに彩っている。
客席に腰を下ろし真ん前にそびえ立つユチェンコホールを眺めてみると、校舎に囲まれているため日が当たらず、夏期でも夕方になれば涼しい風が吹く。周りを見渡せば読書中、あるいは話に花を咲かせながら構内を歩く学生たちの姿が目に入ってきた。
心理学と会計学の二学科を専攻するアンロリーン・アントアコさん(21)は「このホールは大学の新しいシンボル。全てが最新、コンピューターや冷房など設備も完璧で快適だ。ここで受けられる授業は限られているのが残念だわ」とほほ笑んだ。(水谷竹秀)