戦後60年 慰霊碑巡礼第1部ダバオ・セブ編
謎秘める陸軍病院跡
戦時中の日本陸軍病院跡はセブ市内にあるフエンテ公園横、ビセンテ・ソト記念病院(旧サザンアイランド病院)の一部、マタニティ病院の裏手にある。病院跡に立つ慰霊碑には正面に赤十字のマークがあるだけで文字は何もない。そして下端に「南方第14陸軍病院関係者」とあるだけだ。
赤十字マークの病院を空爆した米軍への「無言の抗議」だと私は読み取っている。アメリカ極東軍事裁判が公正であれば、この病院を空爆した兵士は恐らく裁判にかけられたであろう。爆撃を受けた日系二世の看護師は、一時精神に異常を来しながらも、今も存命中だ。
また、下町のプラザ・インディペンデンシャ公園にある立派な慰霊碑には「平和を祈る文言」が和英文で書かれているが、裏面に建立者の名前がない。
今回、岡田貞寛元少佐の記事の中からどうもこれがうわさの「大西部隊」のものらしいと推察された。大西部隊は多額の寄付をして、市役所から場所を提供されたといううわさはかねてから聞いていたのだ。岡田元少佐の記事には「海軍慰霊碑の周囲には、その後新しく三基の碑が建てられていた。セブ市内には前に書いた大西部隊と陸軍病院の碑があったが、いずれも損壊の痕跡はなかった」とある。
なぜ大西部隊が名を隠して慰霊碑を建てたのだろうか?大西部隊はセブ島で戦った陸軍部隊の中ではダントツで強かったという。大西部隊だけが中国戦線から転属された歴戦の精鋭部隊で、ゲリラ相手の戦闘では、いつも勝っていたらしい。戦闘はあくまで戦争法規の範囲内でやっていたから、終戦後も大西部隊長以下誰も戦犯にはならなかった。しかし、連戦連勝していた大西部隊の悪名が一部では高かったため、これが自分たちの名前を慰霊碑に刻むのをためらわせたのかもしれない。どうも日本人らしい無用な遠慮だと思う。
▽「セブ観音」由来記
今は臨時休業中のセブ・プラザホテルの正面駐車場横には、「セブ観音」の青銅像がある。高さ二・一メートルの立派なものだ。台座を入れたら四・六メートルにもなる。創建者で元セブ海軍部隊司令官の岡田貞寛元少佐(87)よると、観音建立に至った経緯は以下のようだった。
一九八二年四月、第二回セブ慰霊団(百八人)がチャーター便で到着する直前に、同ホテルから「今の慰霊碑周辺地区にある卒塔婆六基を一カ所にまとめて永久碑にしてほしい。さもなければ全部を撤去してもらいたい」という申し出があった。これがセブ観音創建の発端だった。立派な観音像が完成し、除幕式を執り行ったのは翌八三年五月だった。焼香の途中、何十本の線香が、ボッと燃え上がり手であおいでも消えなかったという。「今度ばかりは亡き戦友が観音様の建立を喜ばれたのだ」と岡田元少佐は語っていた。
この後ちょっとした事件が持ち上がった。ホテルに宿泊中のアメリカ人の団体客から抗議を受けて、セブ観音の台座にある「青銅銘板」の下半分(英文部分)を切り取られてしまった。このことは岡田元少佐からの便りで初めて知ったことだった。
ところがこの銘板が二〇〇四年八月十五日の慰霊祭で盗まれているのが発見された。何か運の悪い銘板だが、致し方なく、切り取られた英文の部分も含めて日本で再作成してセブへ輸送中だ。
(岡昭、1部おわり)