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戦後60年 慰霊碑巡礼第1部ダバオ・セブ編

[ 1237字|2005.1.3|社会 (society)|戦後60年 慰霊碑巡礼第1部ダバオ・セブ編 ]

慰霊塔は親類の墓標

 旧日本人墓地に建つ「在留先亡同胞霊塔」と墓地の流転を見守ってきたマンダロネスさん

 太平洋戦争前、フィリピン最大の日本人社会があったミンダナオ島ダバオ市。日本人移民の入植拠点の一つになった同市北部ミンタル地区には、戦前に整備された旧日本人墓地が現存する。日本人移民を合葬する碑や戦死者の慰霊碑が立ち並び、毎年八月には日本から多数の慰霊団がやって来る。

 今でこそ、同市の地図で「ジャパニーズ・セメトリー」と紹介され、観光地の一つになっているが、その姿や位置付けは戦前から戦中、戦後という時代とともに移り変わってきた。

 墓地の維持管理を手伝っている同地区生まれのモイセス・マンダロネスさん(86)は、墓地の流転を見守ってきた生き証人の一人。戦前、「ノジ」という日本人の経営するアバカ(マニラ麻)農園で働いていたマンダロネスさんによると、当時は百基を超える日本人の墓石が立ち並び、周辺部には日本人学校や寺・神社もあった。

 日本人のいなくなった戦後、墓地は比人に「解放」され、墓石はダバオ市当局の手で次々に取り壊された。さら地となった場所には比人のひつぎが並ぶようになったという。

 「経済大国日本」の存在が比で注目されるようになった一九八〇年代には、旧日本軍が残したとされる「山下財宝」を探すため、日本関係の慰霊碑や墓を壊す財宝ハンターが横行。墓石の内部や土中に財宝が隠されていると信じるハンターは、わずかに残っていた戦前の墓を掘り返し、墓石を割った。

 戦後、遺族らの手で墓地内に建てられた「沖縄の塔」(沖縄県ダバオ会、七〇年建立)、「戦争犠牲者の慰霊塔」(ダバオ会福島県支部、八五年建立)なども碑板盗難などの被害に遭った。

 十年前の九五年四月、墓地を訪ねたことがある。原形をとどめていた戦前の墓碑は、同市で亡くなった移民を合葬する「在留先亡同胞霊塔」と二七年八月に亡くなった「野中タケ」という佐賀県出身の女性の墓石だけ。同霊塔の背面には巨大な穴が数カ所開けられ、むき出しになった納骨室にごみが投げ込まれるありさまだった。

 「在留先亡同胞霊塔」は、比人のひつぎに取り囲まれるようにして現在も墓地中央部に建っている。破壊と修復を繰り返した結果、九五年当時に碑背面にあった納骨用の鉄製の扉や碑文はコンクリートで塗り固められてしまい、もう痕跡すら見ることはできない。

 修復工事を何度か手伝ったというマンダロネスさんは、戦争末期にこの納骨用扉を開いて親類三人の遺骨を納めたことがある。三人は旧日本軍に殺害されたというめいら。「日本兵がいなくなった後、(殺害現場の)山中の洞くつで半ば白骨化した三人の遺体を見つけた。ペンダントなど装身具でめいらと分かり、持ち帰った骨の一部を塔の中へ入れた」と言う。

 日本人用の納骨室に、日本人に殺された親類の遺骨を入れた理由を聞いても「日本人がいなくなって、塔が残っていたからよ」と笑うだけのマンダロネスさん。日本の慰霊団が手を合わせる塔は、彼にとって今後もめいらの墓標であり続ける。(酒井善彦、つづく)

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