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10月3日のまにら新聞から

国鉄通勤線

[ 1309字|2004.10.3|社会 (society)|名所探訪 ]

日本援助でも復活ならず

 マニラ市タユマン︱ラグナ州カランバ駅間五十六キロ(運賃三十二ペソ)を約二時間十分で結ぶ。平均時速は二十キロ強。タユマン駅発の列車は午前七時の始発から午後五時五十分の最終まで一日わずか十一本。数字は「通勤線」としての機能が既に失われたことを物語る。

 「平均時速二十キロ」という自転車並みのスピードを生み出す秘密は、軌道メンテナンスの劣悪さにある。一九八○年代から続く赤字経営と五十億ペソを超える累積赤字で、保線に回す資金がほとんどないためだ。

 中でも始発駅タユマン︱エスパーニャ駅間(約三・五キロ)の状態は最悪だろう。違法占拠住民約千八百世帯のバラックが線路沿いに並び立ち、軌道内は生活の場と化している。

 洗濯物や汚水、バーベキューを焼くにおい。子供の歓声、ばくちに興じる男たちの大声にニワトリの鳴き声。沿線住民の生活は半開きのドアを通って車内にも吹き込んでくる。

 枕木はぬかるんだ泥に埋まり、一部区間ではレールさえ黒ずんだ生活排水の水たまりに没する。列車は人と脱線事故を避けながら、小走りすれば追いつける程度のスピードで通勤線最大の難所をやり過ごす。

 列車にとって、やっかいこの上ない沿線住民。

 しかし、住民の一人、ビオレタ・ブンボソクさん(37)にとって軌道内は最後にたどり着いた安住の地だった。十二年前、マスバテ州から首都圏に出てきた彼女は、路上生活を数カ月続けた後、軌道内に「空き地」を見つけ、夫と二人でバラックを建てた。長男(11)を頭に六人の子供をバラックで産み、育ててきた。

 ブンボソクさんは言う。「田舎には帰る場所がない。仕事もない。(列車が通って)危ないけれど、わたしたちにはここしかない。電気・水道代が(盗電、盗水で)いらないから、自家製バーベキューを売るだけで何とか生活できる」

 国鉄は過去に何度か、通勤線復活をかけて沿線住民の立ち退きを図った。日本政府の第十七次円借款(供与額二十億二千五百万円)で再整備事業(九一︱九八年)が進められた時も住民と立ち退き交渉を重ねた。

 しかし、移住地を確保できなかったことなどから、タユマン︱エスパーニャ駅間の立ち退き交渉は最後まで難航した。結局、借款実施機関の海外経済協力基金(現国際協力銀行)は九六年十一月に同区間を事業対象から除外。同区間での枕木コンクリート化やレール交換は行われず、事業目的「最高時速八十キロ、平均時速六十キロ達成」は実現しなかった。

 事業終了から六年がたち、整備区間も荒れ始めている。ブエンディア駅勤務のチト・タンビスさん(52)は「(枕木の間に敷かれた)石がコンクリートに混ぜられ違法占拠住民の家になったり、レールが再び泥に埋まってしまった場所がある。通勤線を走るエアコン車両の空調も(車体下部に取り付けられた)発電機が泥水をかぶり全滅状態だ」と話す。

 タンビスさんは国鉄一筋二十七年。「国鉄はもう復活できないだろう。給料遅配は日常茶飯事。退職金をもらえるかどうか……」と嘆く鉄道マンの財布には、約二週間遅れで支給された九月一︱十五日の給与明細(手取り額五千六百六十七ペソ)が大切にしまわれていた。(酒井善彦)

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