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移民1世紀 第1部・1世の残像

[ 1261字|2003.1.8|社会 (society)|移民1世紀 第1部・1世の残像 ]

格差生んだ日本出稼ぎ

上は戦前に撮影されたヨシカワさん(中央の男性)一家の写真。左端の少女がメリシアさん。下は父の建てた家の前に立つ現在のメリシアさんと息子デビッドさん

 マウンテン・プロビンス州はルソン島北部に広がるコルディリエラ山脈の真っただ中に位置している。「秘境」として知られる同州サガダ町は標高約千五百メートルの山中、深い松林の中にある。町中心部に住むヤマシタ家とヨシカワ家は、戦前に町のキリスト教会建設に携わった日本人移民の子孫。ともに苦難の戦後を歩んできたが、一九九〇年代半ばごろから「経済的格差」が生じ始めた。背景には、日系三、四世による日本出稼ぎの本格化があった。

 出稼ぎで潤うヤマシタ家と誰一人日本へ行けないヨシカワ家。明暗を分けたのは、日本人移民(一世)と二世の親子関係を証明する書類の有無だった。戦前・戦中の混乱期、二世の出生は日本国内の戸籍に掲載されないケースが多く、ヤマシタ、ヨシカワ両家の二世も例外ではなかった。

 ヤマシタ家では幸いにも一世の婚姻証明証や写真が残っていたため、二世の名前を戸籍に遅延掲載する作業が比較的スムーズに進んだ。この恩恵を受けたのが一世の孫、ひ孫たちで、現在四世ら約十五人が日系人に発給される定住ビザを取得して日本出稼ぎ中だ。

 二世のヘンリー・ヤマシタさん(79)は「孫らはかなり稼いでいると聞くが、日本から届く小遣いはいつも一万円札一枚だけ。日本ではうまいものを食っているのか、ころころ太って帰ってくる」と目を細める。

 他方、ヨシカワ家の日本出稼ぎ者はいまだにゼロ。二世のメリシア・ヨシカワ・セグワベンさん(84)によると、長崎県出身の父マサタロウさんは一九一四年(大正三年)に二十一歳年下の比人女性と結婚。町内で木工品作りなどをして生活していたが、一九三二年(昭和七年)に子供九人を残して病死した。

 太平洋戦争が始まると、メリシアさんらは「日本人の子」であることを示す書類を土中に隠して、山へ逃げ込んだ。姓も母親の姓を名乗って身を守った。戦争が終わり書類を掘り起こしに行ったところ、砲爆撃で地形そのものが変わり、書類を隠した場所も分からなくなっていたという。

 メリシアさんの四男で三世のデビッド・セグワベンさん(54)は九一年から八年間、日本ではなくサウジアラビアへ出稼ぎに行った。九九年に体を壊して帰国し、現在無職。「本当は日本へ出稼ぎに行きたかったが、書類がなくビザが出ないのであきらめた。ヤマシタ家の三世は、子供たちが日本から送ってくる金で家を建て替えたり商売を始めたりしている。町内の日系人はヤマシタとヨシカワだけで、うらやましくないと言ったらうそになる」と胸中を吐露する。

 ヨシカワ家には今も、マサタロウさんが建てた家と数年前に枯死したという柿(かき)の木が残る。「父はここで仕事をしていました。その道を通って出掛けていました。葬式の時、父の遺体はそこに置かれていました・・」。生家を指さしながら、まるで昨日のことのように回想するメリシアさん。耳の遠くなった母の元で暮らす息子、孫、ひ孫たち。そこには、日本へ出稼ぎに行けないが故に変わらない、ゆっくりとした「家族の時」が流れていた。

(つづく)

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