移民1世紀 第1部・1世の残像
日本人の「貢献と犠牲」
ベンゲット道路(別名ケノン道路)に入って約二十六キロ。飯場跡の一つ「キャンプ6」を過ぎると、道は急にこう配を増す。終点のベンゲット州バギオ市までは約十五キロの道のり。車窓を開け放つと木々の香をたっぷり含んだ冷涼な空気が吹き込んでくる。熱帯の太陽に慣れた首都圏の住人が「別世界」という言葉を実感する瞬間だ。
別世界を求める気持ちは、十九世紀末にフィリピンの植民地支配を始めた米国人も同じだった。マニラなど低地では、高温多湿な気候に慣れず病死する米国人が続出。このため、植民地政府は一九〇一年(明治三十四年)一月にベンゲット道路と避暑地・バギオの開発に乗り出した。
しかし、ブエド川の刻んだV字谷をさかのぼる工事は予想外に難航した。当初、六カ月間に設定された工期は、〇五年三月までの四年二カ月間に延び、工費も当初比約二十七倍、二百万ドルを超えた。
延べ人数で三万人に迫った労働者は世界四十六カ国から集められ、日本人は全体の二割程度を占めていた。最も多かったのは比人の五割。残りは米国人二割弱、中国人一割とインド人、英国人らだった。
「多国籍労働者集団」が手作業で切り開いていったキャンプ6後のつづら折り。急坂になることをできるだけ避けようとしたのか、道は山肌をはうようにして高度を上げ、最後の飯場跡「キャンプ8」に入る。
V字谷を見渡せるキャンプ8では、バギオ市の日系人会組織「北ルソン比日友好協会」が一九八九年十一月に展望台を建設。二〇〇二年一月からは、展望台下の斜面で公園の整備に着手、約三百万ペソをかけボントック、イフガオ、ベンゲット、カリンガ民族の伝統家屋を設置した。今年二月十九日にバギオ市で行われる移民百周年記念式典に合わせて新名所としてオープンする予定だ。
展望台を上ろうとすると、同協会の設置した記念プレートが目に入る。「ハイウエーを完成させた米比日の労働者に捧げる」という一文と三カ国の労働者の絵が刻まれている。絵は、労働者三人が道路開通を喜び合う構図。比人が中央でツルハシを掲げ、一番背の高い米国人がその腕に手を添えている。着衣はおそろいの帽子と作業着。
一方「死者七百人という多大な犠牲を払って完成に大きく貢献した」とされる日本人は鉢巻きにじゅばん姿。一番背が低く姿勢はやや半身。大地にしっかり立つ比・米国人に比べ控え目な感じだ。
同協会が二十年前に作成した移民八十周年記念誌のあいさつ文にも、日比間で微妙に異なる「貢献・犠牲」の意味が反映されている。「日本人労働者は偉大で献身的な貢献をした」(当時の駐比日本大使)▽「国際的な労働者集団の一員として道路建設を助けた」(マルコス大統領)▽「避暑地建設計画への貢献度は決して小さくなかった」(同協会作成の序文)。
プレートに名前が刻まれている「ハマダ」、「テラオカ」、「タナベ」ら協会幹部は、戦前・戦中に日本人労働者と比人女性との間に生まれた日系二世たち。控え目な日本人の絵と「小さくなかった」と逆説的な表現の序文、その向こう側には比人として生きることを強いられた「日本人の子たち」の戦後が影を落としていた。(つづく)