ハルセマ・ハイウエー
開拓の道は侵略者の道
窓を開け放したバスが車体をきしませながら通り過ぎた。真っ黒い排ガスと猛烈な砂じんが標高二千メートルの空気と混じり合い、視界が利かなくなる。車を崖っぷちに止めて数秒。肌寒い風が峠を渡り、山すそから青空へ向かって刻まれた段々畑が再び姿を見せた。
ハルセマ・ハイウエーはルソン島北部ベンゲット州ラトリニダッド町から北へ伸びる山岳道路(全長約百四十六キロ)で、大部分は山肌を削り込んだだけの未舗装路。終点マウンテン・プロビンス州ボントック町までの約七時間、この「ストップ・アンド・ゴー」を何度繰り返したことか。
道路の最高地点は標高二千二百五十五メートル。フィリピンで最も高い場所を走る。周辺には、国内第二の高峰プラグ(二、九二六メートル)を頂くコルディリエラ山脈の大パノラマが広がる。観光資源としても第一級で、アロヨ政権は二〇〇一年七月に国際復興開発銀行(IBRD)の融資七億二千万ペソを受け道路整備に着手した。〇五年一月の完工時には「観光道路」としての体裁が多少なりとも整うことだろう。
その歴史をたぐろうとすると、道沿いに数多く残る鉱山跡へ行き着く。鉱山の開発者はスペインから比植民地支配を引き継いだ米国人たち。十九世紀末から二十世紀初めにかけ、金などを求めて山岳部へ分け入る米国人の動きに合わせ「フロンティア開拓の道」も切り開かれていった。
「開拓の道」は、イゴロットと呼ばれる山岳少数民族にとって「侵略者の道」だった。二十世紀初頭には米国人、フィリピン人カトリック教徒の連合軍と戦い、太平洋戦争末期には米軍と共闘して、ルソン島北部へ逃げ込んできた日本軍を追った。比人カトリック教徒との戦いは戦後も続き、一九八七年七月のコルディリエラ自治区(ベンゲット、マウンテン・プロビンスなど五州)設置に結実した。
しかし、自治権確立の傍らで進む経済・文化的な浸食は止まりようもない。ハイウエー沿いの段々畑はその象徴だ。かつての棚田は現金収入を得るため畑に姿を変え、キャベツや白菜、ジャガイモなどが栽培されている。水田と違って水を張る必要がないため、あぜは崩れるばかり。山肌には焼けただれたような土砂崩れ跡が無数に走る。
マウンテン・プロビンス州との州境に近いベンゲット州アバタン町。野菜農家のネルダ・ダガノスさん(30)は一ヘクタールほどの畑でキャベツなどを栽培している。「昔は棚田だったと聞いているが、私が生まれたころはもう畑になっていた。野菜を売って米を買っている」と言う。
同州最大の都市バギオ市までは約九十キロ、ハイウエーで四時間以上かけて作物を出荷する。民族文化を語る上で棚田と稲作、コメが重要な意味を保持し続ける隣州イフガオなどとは違い、ダガノスさんら同町の農家にとって、作物はもはや「値段が下がったら出荷せずに腐らせる」存在でしかない。(酒井善彦)