ブストスダム
生き続ける日本人の技
ルソン島ブラカン州からマニラ湾へ注ぐアンガット川。その中流にフィリピン最古の灌漑(かんがい)用取水ぜきがある。正式名は「アンガット川灌漑用調整ダム」。周辺はフィリピンでは珍しい親水公園で、地元同州ブストス町の人々は「ブストスダム」と親しみを込めて呼ぶ。
町史によると、着工は一九一八年。五百万ペソ(当時)をかけ二四年に完成した。工事にはロシア人技師らとともに「オクシマ・ヨシタロウ」、「ムラモト」という日本人技師二人も招かれた。二人は「米の作付け面積を飛躍的に拡大させ、住民の生活を劇的に変えた功労者」として今も町史に名をとどめている。
ダムの全長は約四百七十メートル。高さ約三メートルの本体部にはラバー製の水位調整ゲートが六門あり、圧縮空気の出し入れで膨らんだり縮んだりする。せき止められた水は両脇の取水路から用水路へ流れ、周辺部十六町村、三万一千五百ヘクタールもの田を潤す。
傷みが目立ち始めたのは約三十年前。六八年、アジア開発銀行から約一千万ドルの融資を受け大規模な補修工事が実施された。九〇年代に入ってからは台風によりラバーゲートなどが損傷したため、九七年に日本政府の無償資金協力で改修工事が行われた。
そして今、三回目の大規模補修が続いている。対象は本体部から水が流れ落ちるエプロン部分。六七年、上流部にアンガットダムが完成した影響で土砂流量が減少し、エプロン部分を支えている川底に空洞ができているという。
工期は二〇〇一年十一月から二〇〇三年三月で、水量の増える雨期は作業ができず乾期限定の工事だ。やはり日本政府の無償資金協力(約十二億円)で、日本の技術者たちが工事に携わっている。
日本人技術者の一人(37)は言う。「本体部は戦前に作られたものだが、当時の技術者はコンクリートの打ち方、仕上がりなど実にいい仕事をしていた。これは日本人の仕事ではないかと内心思っていた」
大正時代の技術者、オクシマさんは一九二三年に同町出身のフィリピン人女性と結婚し四人の子供に恵まれたが、太平洋戦争が始まる直前の四一年六月に同町で病死した。残された子供たちを待っていたのは、フィリピン人による報復だった。
六年ほど前、ダムのかたわらでオクシマさんの長女、ヨノラ・オクシマ・ネポムセノさん‖当時(60)‖と会ったことがあるが、「日本人の子供というだけで親類にも引き取ってもらえず路頭に迷った。日系人であることを示す書類はすべて処分した」と淡々と話す表情が今も忘れられない。
彼女が持っていた形見は若き日の父の顔写真一枚きり。八十年近い歳月を生き、現代の技術者の手で新たな生命を吹き込まれるダムとは対照的に、オクシマさんの出自は今も歴史に埋もれたままだ。(酒井善彦)