マラテ・ペンション
マニラの歴史を刻む
マニラ市マラテのアドリアティコ通りとレメジオスサークルの交差する辺りに、国内外のバックパッカーや長期滞在者の定宿となっているマラテ・ペンションがある。スペイン統治初期に起源を持つマラテ教会にも近く、今では数少なくなった戦前の建物である。この近辺にはペンションが幾つかあるが、ここほど利用者にマニラの歴史を感じさせるところはないだろう。
一九三七年、この土地の所有者だったバレロ家の当主がアメリカ人建築家に依頼して建てた。元々、六世帯が入居できるアパートメントだった。現在マニラ市にある旧最高裁判所ビルと同時期の建物で、ここで半世紀近く働いている庶務課長のホセ・オヘナさん(72)は「屋根を三回替えるなど外装を除いて現在までほとんど変わっていない」という。黒光りした木造の階段やナラ材の手すり、各部屋にある洋服タンスや柱などが当時の建築様式をしのばせる。
アパートは七四年、家族用の大部屋を小部屋に仕切り分け、ペンションに生まれ変わった。米国の有名な民間ボランティア組織・ピースコープボランティアやベトナム戦争中のベトナム人ボートピープを対象とした比人ボランティア教師が定宿とした。
勤続二十三年というマネジャーのミラ・マニカブレさん(44)は「十八年間ここで住んでいたフィリピン人ビジネスマンもいた」と常連客との交流を紹介してくれた。しかし彼女は、最近、若い日本人や韓国人などの宿泊客が睡眠薬強盗被害に遭うケースが増えたとまゆをひそめた。「とにかくフィリピン人の友だちを作りたいようで、注意してもあまり聞いてくれない」と言う。
日本との関係も深い。第二次世界大戦中、アパートは日本軍により一時接収され、陸軍の航空保安部隊が航空機の通信傍受のため、四四年四月から翌年一月まで、機材を持ち込み兵員を常駐させた。
同部隊の元隊員の日本人男性(77)は今やペンションの常連客。戦後間もなく、再びマニラに来た際には真っ先にここを訪れた。男性は「四四年末、マニラ湾に入港する日本の艦船へ米軍爆撃機が徹底爆撃し、多くの日本兵の死亡を目撃した」と振り返った。
やはり同隊員だった他の日本人二人も戦後このペンションを見つけ、懐かしそうに何度も建物の周囲を巡っていたそうである。
ペンションは増築を重ね、現在は五十二部屋。中庭があり、道路沿いにテーブルを出したパリ風のコーヒーショップもある。ファッショナブルなラウンジやレストランなども併設され、夜はおしゃれなデートコースとなっている。時代とともに装いは変わっても、人々の交流の歴史はいつまでも残っていくようだ。(澤田公伸)