クラーク博物館
喜びと痛み生んだ決議
ルソン島中部パンパンガ州にあったクラーク米空軍基地。その歴史は、比米戦争(一八九九︱一九〇二年)直後にさかのぼる。
戦争に勝利した米国は、広大なパンパンガ・デルタ(三角州)の一角に「ストツェンバーグ要塞」を築き、同島中部の支配拠点とした。一九年には飛行場が併設され「クラーク・フィールド」と改称。戦後、極東最大とされた空軍基地の礎が築かれた。
基地の歩みを紹介する一千点近い展示物。正面玄関前では二十世紀初頭に使われた大砲が宙をにらむ。館内では、米軍関連の写真パネルや資料、旧日本軍が残した銃器類などに混じって、「上院決議一四一号」のコピーが目を引いた。
決議は一九九一年九月に可決され、基地貸与協定の改定を拒否した。審議では基地存続の是非をめぐる激しい論戦が展開され、採決は賛成一二、反対一二と真っ二つ。最終的にサロンガ議長‖当時‖が賛成に回り、九十年間に及ぶ米軍基地の歴史に幕を引いた。
アキノ政変からわずか五年後に起草された決議文は、今も読む者に鮮烈な印象を与える。
「貸与協定は比米両国に同様の権利、義務を認めず、一方的かつ不平等だ。諸外国との平等かつ自由、平和的関係の構築をうたった共和国憲法にも反する。国は独立を希求しなければならない」
さらに、「経済的には大きな打撃を受けるだろう。しかし、健全な経済政策、清潔で効率的な政策運営、想像力豊かな問題解決策をもってすれば、困難は必ず克服できる」と経済的独立への決意と可能性を高らかにうたっている。
米軍は決議可決から二カ月後、基地から全面撤退した。米国オハイオ州の大学を卒業後、四十年以上にわたり米軍のアドバイザーとして働いた館長のセフェリナ・イエペスさんは言う。
「祖国の土地を取り返した喜びと家族のような米国人を失う痛みが複雑に絡み合った。多くの同僚が米国へ移住していった。私は思いとどまった。なぜなら、フィリピンで生まれ育ったフィリピン人だから」
米軍撤退から間もなく九年。基地跡地の再開発、企業誘致が進む一方で、フィリピン人約四万二千人が基地関係の仕事に従事していた時代を懐かしむ声も根強い。例えば十年、二十年後、上院決議文が博物館を代表する展示物になるのかどうか。それは、他でもない「フィリピン人」による「健全な経済政策、清潔で効率的な政策運営」にかかっている。 (酒井善彦)