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4月9日のまにら新聞から

名 所 探 訪 サマット山 144

[ 1009字|2000.4.9|社会 (society)|名所探訪 ]

激戦地に立つ巨大十字架

 ロハス大通りからマニラ湾を望むと、はるか彼方にバタアン半島の山並みがかすんで見える。

 半島へは、フィリピン文化センター(CCP)横から高速フェリーが頻繁に通う。船が着くのは東岸中部の町、オリオンで、所要時間四十五分。

 オリオンから車で北に向かうと、左手の小高い山の上に立つ巨大な十字架が目を引く。大平洋戦争の緒戦、日本軍と米比軍が死闘を繰り広げたサマット山(五五三メートル)。十字架は、戦場で倒れた比米軍将兵の鎮魂のシンボルだ。

 一九四一年末、マニラを放棄したマッカーサー米極東軍総司令官は、八万人の米比軍を同半島に後退させて日本軍を迎え撃つ戦術に出た。一方、日本陸軍の第十四軍(本間雅晴中将)は四二年一月九日、バタアン攻略作戦を開始したが、米比軍の頑強な抵抗に遭って戦闘を中止した。日本軍の犠牲者は戦死二千七百二十五人で、米比軍の戦死一千百四十二人の倍以上を数えた。

 態勢を立て直した日本軍は四月三日、三百門の大砲と百機の爆撃機で、サマット山ろくに展開する米比軍を猛攻撃した。

 「とどろく爆裂音は絶え間なく一帯を震わし、砂煙が巻き上がって、たちまちサマット山頂を包んだ。壮絶そのものだった」と、戦闘のもようを第十四軍参謀将校が報告している。

 同月九日、七万八千人の米比軍が降伏。「死の行進」と米軍が呼ぶ捕虜の徒歩移動が始まった。

 かつての激戦地、サマット山には今、ふもとから舗装された道路が山頂まで伸び、CCPを出てからでも、二時間足らずで行くことができる。 

 山頂は、高さ九十メートルの十字架を中心にした広場で、ピクニック気分のフィリピンの人たちが昼時に、木陰でお弁当を広げている。

 辺り一帯は、大木が枝を重ねて生い茂り、眼下はのどかな田園風景。六十年近い歳月が、山容を改めるほどの砲弾が撃ち込まれたとは、とても思えない平和なたたずまいをよみがえらせている。

 頂上手前の斜面を切り開いた台地に壮大な大理石造りの英雄廟(びょう)がある。地下は、バタアン戦を後世に伝える資料館になっている。

 「勇敢なフィリピンの若者は情け容赦ない敵の攻撃に対しバタアンで最後の抵抗をした」と廟内の壁面に刻まれている。

 「昨日の敵」は、心からフィリピン人の「今日の友」になっているのだろうか││。

 「英雄の日」の九日、英雄廟で催される祈念式典には、エストラダ大統領とともに荒義尚駐比大使が列席する。(濱田寛)

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