検証3 ライステラスで増える野菜畑 洪水被害のバナウエ農家
検証3・6月に甚大な洪水被災を受けたバナウエの棚田を訪れ、農家などから現状を聞いた
「世界8番目の不思議」の別名を持つ、世界遺産のライステラス(棚田)で知られるコルディリエラ行政区イフガオ州バナウエを、今年6月8~9日、豪雨と洪水が襲った。激しい鉄砲水により、泥や木を含んだ大量の水は棚田に留まらず、整備された道路と民家にも押し寄せ、周辺の千軒以上、住民約1500人が被害を受けた。援助も見込めず資金不足で棚田修復に手をつけられないほか、やむを得ず栽培作物を変更するなど、輝かしい世界遺産の看板とは裏腹に、危機に直面するバナウエの農家らに、コロナ禍やインフレ率上昇などを含め、今年1年の現状を聞いた。
気温が下がるこの季節のバナウエの棚田は霧や小雨に包まれていた。石がはめこまれただけの、傾斜が激しくひと1人通るのがやっとな石段と通路は泥でぬかるみ、一歩も気を抜けない。
滑る棚田の縁を慣れた足取りで進む、観光省認可ツアーガイドのグラハム・ハンダアンさん(30)の家族が持つ棚田は、洪水の被害を最も強く受けたエリアにある。その一部では、洪水で押し寄せた倒木などが端に寄せられているものの、雑草が生い茂り原型を留めていない場所も目立った。
棚田の修復にはかなりの資金が必要という。特に水田は灌漑(かんがい)水路を引き直す必要があるため、個人の力では再生できない場合が多い。ハンダアンさんは「資金不足でやむを得ず放置されている棚田がほとんど」と話す。「大学卒業間近の弟が管理する収穫前のトマト畑は全て流された。家族と相談の上、卒業までは手をつけないことに決めた」という。
洪水後には国家警察や消防隊が派遣され、家の建て直しや泥の掻(か)き出しなど被災地支援が行われた。「自宅が一部倒壊した兄の家族には、自治体から5千ペソの援助があった。正直足りないが、ゼロよりはましと割り切るしかない」。また、農務省の技術者がハンダアンさんの棚田が受けた被害の測量に来たが「測るだけ測って、その後具体的な支援や対策のために協力してもらえる気配は一切ない」と諦め顔で笑ってみせた。
▽コメから野菜に転作
農業と観光業関連以外に仕事の少ないバナウエでは、首都圏やバギオなど都心部への出稼ぎ人口も多い。ハンダアンさん自身も、観光業が大打撃を受けたコロナ禍の数カ月間、兄弟とバタンガス州で家具職人の仕事に就いていた。コロナ禍では都心部でも失業や解雇が相次ぎ、出稼ぎ労働者の多くが地元バナウエに帰郷。しかしバナウエでの雇用口が突然増えるわけもなく、「栽培する作物と作付け回数を増やして、無理やり仕事を作り出してしのいでいた」という。
バナウエで最も有名なティナウワン米は、100%有機米にするため、伝統的な栽培法に則り収穫は1年に1回。対してピナワ米は、ランクは下がるが1年に2回の作付けが可能だ。しかし、コロナ禍を通して、コメ栽培を止め、少しでも収入が見込めるトマトやキャベツなど野菜畑に転作する農家も増えたという。
さらに、今年の洪水の影響を受け、資金不足や灌漑水路の問題で棚田の修復に手をつけられない農家の多くも、本来のコメ栽培から野菜畑に転向。ハンダアンさんによると「野菜畑を始める方が圧倒的に簡単。洪水後に政府機関から提供された種も野菜のものだった」。
ところが、バナウエで収穫されるコメはほとんどが地産地消用のため、コメの作付け面積減少の結果、地元民のコメの消費量に収穫量が追い付かなくなるという、新たな問題に直面しているという。
▽価格変動はこれまでも
今年11月には比のインフレ率が過去14年間で最高水準の8%を記録し、物価上昇が国民の生活に重くのしかかっている。ところが、バナウエでは複数の農家から「物価上昇は特に感じない」との声が聞かれた。
一方で、バナウエで獲れた野菜を都心部のスーパーなどに卸す仲介企業やバイヤーによる「買いたたき」と、買い取り価格の激しい変動が、農家の不安定な収入の大きな要因となっている。
ハンダアンさんは「都心部のスーパーで3倍以上の価格に跳ね上がっても、農家の収入には一切つながらない。政府機関と癒着した権力ある企業相手の値段交渉は、農業組合であっても難しい」とし、「今年の物価上昇に関係なく、ずっと根強くある問題」と指摘した。
▽援助求めるも希望薄く
13年に比を襲った大型台風の被災後、資金援助や寄付で1年に3000万ペソほどが集まり、16年までは棚田修復が進んでいたものの、予算不足などで現在はほとんどが打ち切られている。
ハンダアンさんによると、州知事や町長選挙前、候補者は決まって農家に基金援助や農業器具の提供を公約に掲げるという。「トラクター1台だけが組合に提供されてもあまり意味がないが、公約を信じて皆投票する。だが現知事は今のところ調査の音沙汰もない」とため息をついた。
バナウエの農家が政府機関に求めることについて、ハンダアンさんらが所属する地域農業組合長のジェラルド・バンガドンさん(42)は「バイヤーは権力と癒着せず、せめて野菜の買い取り価格を安定させてほしい」とし、「本音はコメ作りに戻りたいという農家も多いが、資金不足で棚田は修復できず、収入も見込めないから野菜畑に転向するしか道がない。少しでも援助があれば」と吐露した。
しばらく沈黙した後、架空の話をするように「資金援助は、もし可能ならばの仮定の話だけれど」と、不安定な組合員の生活を何とかしたいという強い思いと、半ば諦めの混じる複雑な表情で力なく笑った。(深田莉映)