議長が見た被災地1
サマール州バセイ町の離れ小島は孤立無援に。バランガイ議長が食料確保に奔走
11月8日にビサヤ地方を襲った台風ヨランダ(30号)は、最大風速90メートルの烈風と、思わぬ高潮被害で、約8千人の死者・行方不明者を出した。被災から6週間後、特に甚大な被害を受けたレイテ州タクロバン市、パロ、タナワン、サマール州バセイ各町に入り、自らも被災した状況下でふるさとの地域・住民と政府の間に立ったバランガイ(最小行政区)議長に話しを聞いた。
ビサヤ地方レイテ州タクロバン市を、はるか対岸に臨むサマール州バセイ町。海辺に立って対岸を眺めると、離れ小島があるのに気づく。人口2600人、650世帯が暮らすサルバシオン・バランガイ。太平洋戦争中、米軍の「海空軍合同情報作戦センター」が置かれたことから、英単語の頭文字をとって「ヒナモック島」と呼ばれている。
サマール本島の同町中心部にある埠頭(ふとう)から、エンジン付きバンカ(小舟)で片道約15分、船賃10ペソで渡れるこのバランガイにも、台風ヨランダ(30号)の高潮が襲った。
10月末の選挙で初当選し、議長を務めるアントニオ・ディソンさん(48)は当時を振り返る。
11月8日午前7時ごろから烈風がわが家をたたきつけた。約20分後に自宅内に海水が入ってきたかと思うと、あっという間に1階部分が水に没した。当時ディソンさんは、妻や息子、近くの人たちと共にコンクリート製自宅の2階にいた。窓から、女性が板につかまったまま高潮に流されていくのを見た。
島から水が引いたのは正午すぎ。自宅1階の壁は大破した。外は惨状。生き残った住民が次々と駆け寄ってきて、「あっちに遺体がある」「こっちにも遺体がある」と言う。「頭が痛くてくらくらした」。ディソンさんは両手を頭に乗せて、目をうるませた。
32人の遺体が見つかり、20人は今も不明のまま。遺体は教会に集められ、集団で埋葬された。島内で原形をとどめた民家は33軒だけだったという。
午後になり、国軍機が上空を通り過ぎるのが見えた。近くで見つけた白いカーテンを木の枝に結びつけ、助けを求める旗印として船着き場の端に立てた。旗は今も残っている。
翌日、島内に唯一残ったまだ使えそうな小舟に乗り、前議長の義兄と共に、バセイ町中心部に渡った。住民の食料確保に専念した。町で商売をしている友人に、商品のコメ20袋を付けで譲って欲しいと頼んだが、町の被害も深刻で、断られた。手持ちの現金6050ペソをつぎ込み、50キロ入りのコメ3袋を1袋2千ペソで買った。島に戻り、列を作った住民に配ったが、あっという間に底をついた。
翌々日、再び町に渡ると州都カトバロガン市から運ばれた救援物資を運ぶトラックを見た。偶然そこで知人のカルバヨグ市会議員に会い、「けが人がたくさんいる。皆、腹をすかせている。薬も必要だ」と訴えた。議員が州関係者に頼み込み、町の他のバランガイに割り当てられた救援物資から、小分けされた食料115袋を譲ってもらった。サルバシオン用の物資はなかった。
11日、赤十字による医療支援があると聞き、三度町に渡り、今度はけが人を運んだ。赤十字関係者に、島にも来て治療をして欲しいと懇願した。町には社会福祉開発省の救援物資が一部届き始めていた。
12日になって初めて、ヘリコプターが空から島に食料パックを投下した。この日からは毎日、町に渡り、支援活動をしている国内外の非政府組織(NGO)で自己紹介しながら、島の状況を説明し、島に連れて来たり、救援物資を運んだ。自分から島の存在を知らせなければ、ヘリコプター以外の支援はなかった可能性が高いという。
被災前、650世帯を数えた住民は、1カ月後には半分以下の200世帯に激減した。生存者は首都圏やサマール本島の親類を頼って避難したのだという。少しずつ戻ってきてはいるが、12月末現在も335世帯にとどまっている。
ディソンさんは「議長ではなかったら、自分もマニラに行っていただろう」と話す。
今、必要としているものの優先順位は①缶詰・コメ以外の食料②住宅と生計の再建③バランガイの美化、整備。「政府の支援が遅かったり、外国の支援物資を国内製品にすり替えたり、そういうことをフィリピンから完全に無くすのは難しい。怒る気はない。神様がついている。助け合ってバランガイが元に戻れば、住民もまた皆戻ってきてくれるはずだ」(大矢南、続く)