台風ヨランダ(30号)
死者1千人以上を出したレイテ州の2町では教会や役場、道路沿いも埋葬地に
台風ヨランダ(30号)で、ともに1千人を超える死者を出したビサヤ地方レイテ州のパロ、タナワン両町。被災から3週間が経過した今も、遺体が新たに見つかり、集団埋葬地となった教会や役場前の広場、がれきの残る道路脇に葬られ続けている。
太平洋戦争末期、マッカーサー司令官の再上陸地点となったことで知られるパロ町。州都タクロバン市の南側に隣接し、人口約6万3千人のうち、計1381人(2日現在)が死亡、行方不明になった。
役場から海岸沿いを数キロ南下したところにあるサンフアンキン・バランガイ(最小行政区)では、被災翌日から、地区内のカトリック教会前広場が遺体の一時安置所となった。
被災前、859世帯が暮らした同バランガイの犠牲者は約300人。広場は次々に運ばれてくる遺体で埋まり、被災3日後の11月11日から重機を使った埋葬作業が始まった。
これまでに葬られた遺体は約210。広場には、がれきの山から拾い出したとみられる木切れや竹を使った十字架が80程度、立ち並んでいる。2日午後も、数日前に見つかったばかりの9遺体が葬られた。うち5遺体の身元は確認されたが、残り4体は身元不明のままだった。
バランガイ議長のパポース・ランタホさん(49)は「町内の墓地も被災した。(被災直後は)道路もふさがれ、とても遺体を運べるような状態ではなかった。かわいそうだが、教会の敷地内に埋葬されることで、救われるよう願っている」と声を詰まらせた。
9遺体の埋葬を傍らで見守ったロナデル・ポンセさん(31)も今回の被災で56歳の母、4歳と2歳の子供、19歳と14歳の妹を亡くした。うち母と4歳の長男、19歳の妹の遺体は被災当日の8日に見つかった。その3日後には、2歳の長女も見つかり、いずれも教会前広場に埋葬された。助かったのは、自分と妻、生後1週間の次女だけだった。
「自宅は川沿いにあるので、氾濫を予想して(4歳と2歳の)子供2人を海に近い母親の家に避難させた。まさか、海から水が押し寄せるとは思わなかった。子供2人は私が殺したようなものだが、次女を助けられたのがせめてもの救い」と話すポンセさん。今も行方不明の14歳の妹を捜すため、毎日のようにがれきの山を見て回っている。手掛かりは、灰色の袖の付いた緑のTシャツという。
教会からさらに南へ数キロ離れたタナワン町は、今回の台風で最も深刻な人的被害を受けた自治体だ。死者・行方不明者は、タクロバン市の2661人(2日現在)に次ぐ2006人。人口22万人強の同市に対し、タナワン町の人口は約5万人で、町民のほぼ25人に1人が犠牲になった。
遺体の大部分は、町役場前の広場に埋葬されているが、あまりの多さのため、道路沿いのスペースも埋葬地として使われている。
その一つが、同町カロッグコッグにある幹線道の三差路。道路の間のわずかな地面に、やはり木切れを使った小さな十字架が30近く並ぶ。その傍らで、ろうそくに火をともしていたジュン・マハディリャスさん(58)は、被災4日後に息を引き取った母親(87)を三差路の脇に埋葬した。
11月8日朝の被災当時、母親はマハディリャスさんらと共に、水没寸前の自宅のはりにつかまって助かった。しかし、直後に持病が悪化し、連れて行く病院も薬を買い求める先もないまま、避難所で亡くなった。さらには、遺体を埋葬する墓地、搬送する手段もなく、知人ら5人の手を借りて、自宅近くの三差路に運んで埋葬したという。
同町で生まれ育ったマハディリャスさん。「あまりにも多くの人が亡くなった。母親には申し訳ないが、非常時だから仕方がない。明日からセブ市へ行くので、別れを告げに来た。数カ月後、落ち着いたら、遺体を掘り起こして、お墓に移すつもり」と言葉を継ぎながら、海風で消えそうになるろうそくを手で覆った。(酒井善彦)