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12月2日のまにら新聞から

台風ヨランダ(30号)

[ 1638字|2013.12.2|気象 災害 (nature)|ビサヤ地方台風災害 ]

レイテ島生還者の旧日本兵らの遺志継いで建設されたホール、住民60人の命守る

台風通過時、住民約60人が避難した多目的共同ホール。背後の丘には、強風でへし折られたヤシの木々が立つ=1日午前10時10分ごろ、レイテ州ビリヤバ町で写す

 台風ヨランダ(30号)で甚大な被害を受けたビサヤ地方レイテ州ビリヤバ町で、日本の民間団体から寄贈された多目的共同ホールが、台風通過時に避難所として使われ、住民約60人の命を守った。

 この民間団体は、約30年前からフィリピンなどで旧日本兵の遺骨収容と慰霊を続ける特定非営利活動法人(NPO)「戦没者追悼と平和の会」(塩川正隆理事長、佐賀県みやき町)。太平洋戦争末期、日本兵約2万人の玉砕の地となったカンギポット山から生還し、戦後、比日友好に尽くした初代理事長らの遺志を継いで、今年7月初旬、同山のあるビリヤバ町に共同ホールを贈った。

 ホールはコンクリート建て平屋で、床面積は約60平方メートル。初代理事長の故永田勝美さんらが約18年前、地元の退役軍人協会と協力して建立した「日比合同慰霊碑」の敷地内に建てられた。「ホールを利用しながら、住民の人たちに慰霊碑を守ってほしい。戦後、(比日両国の)先輩たちが礎を築いてくれた日比友好親善のバトンを次の世代につないでもらえれば」(塩川理事長)との願いが込められた。また、町内の高台にあるため、台風接近で高潮が押し寄せた時などに、避難所として利用されることも想定されていた。

 今回の台風接近時、住民らがホールに集まり始めたのは、11月7日午後6時ごろ。7歳のころ、高潮で家を失った経験のある、ホール管理人のエドガルダ・バリエンテさん(49)が避難を呼び掛けたためだ。「スーパー台風と聞いたので、家の近くにヤシの木があり、家がつぶされる恐れのある住民らに声を掛けた」という。

 最初、数世帯だった住民の数は徐々に増え続け、台風が最接近した8日午前9時前には、12家族、約60人でホール内が埋まった。風雨は約2時間後の午前11時ごろに弱まったが、避難した住民のうち8家族の家が強風で全壊し、衣類や家財道具の大半も飛ばされてしまった。

 うち5家族は拾い集めた木ぎれなどを使って、急場しのぎの家を建てた。しかし、残る3家族、11人は12月1日現在も、共同ホールで避難生活を続けている。その一人、ホールの裏手に自宅のあったフランシスカ・アルメンタさん(29)は「11月7日午後7時すぎ、夫と子供2人を連れて避難した。8日朝、家が強風で飛ばされてなくなった。残ったのは、ホールに持ち込んだ衣類とわずかな食料、食器の一部だけ。つらいけれど、避難していなかったら、親子4人とも死んでいたかもしれない。命が助かったことに感謝している」と言葉をつなぎながら、涙を浮かべた。

 国家災害対策本部によると、レイテ島北西部にあるビリヤバ町では、今回の台風で10人が死亡、30人が負傷した。全半壊した家屋は約8300棟で、町民約9600世帯、4万5000人が被災した。ホール管理人のバリエンテさんによると、台風通過時、同町周辺の海は干潮に近く、高潮による被害は出なかったが、「満潮時だったら、(約2千人の死者を出した)タクロバン市のような被害が出ていたかもしれない」という。

 共同ホールの建設は、約70年前の太平洋戦争で銃口を向け合った比日両国の元軍人たちが戦後、友好の証しとして日比合同慰霊碑を建立し、ビリヤバ町で合同慰霊祭を毎年開いてきた交流の延長線上にある。そのホールが地元住民の命を守ったことについて、塩川理事長は1日に現地の被災状況を視察した際、「かつて、憎しみ、殺し合った人たち(比日の元軍人)が、これからは仲良くやっていこうという思いを込めて、慰霊碑を建てた。約3年前の台風接近時、住民の人たちが慰霊碑の回りに避難したと聞いて、ホール建設を計画したわけだが、ビリヤバの人たちのため役立ってよかった」と話した。

 太平洋戦争中、レイテ島で戦死した旧日本兵は約7万9千人で、現在も8割強、約6万4千人の遺骨が未収容のまま。ビリヤバ町内にあるカンギポット山で戦死した塩川理事長の叔父、清隆さんの遺骨も見つかっていない。(酒井善彦)

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