「日本の野球文化を輸出」 東南アでの普及目指し活動
比で野球イベントを開くなど、野球の東南アジア普及に挑戦している柴田鐘吾さんに聞く
比で貧困層向けの野球教室を主催する一般社団法人海外野球振興協会NB ACADEMYの代表理事で、自ら起業したコンサルティング会社Noborder株式会社の代表取締役を務める柴田鐘吾さんは、甲子園出場経験があり、プロ野球でもプレーした生粋の野球人。一方、難病発症や転職、起業とこれまでたくさんの壁を乗り越えてきた。比で野球教室などボランティア活動を行い、「日本の野球文化をアジアに輸出する」ことを目標とする柴田氏に野球や比への想いを聞いた。(聞き手は沼田康平)
―これまでの経歴は。
小学2年の時に野球を始め、6年で全国制覇した。中学3年のときに厚生労働省の指定難病とされている「ベーチェット病」を発症したが、愛工大名電高へ入学。2度の入院を経験したが、高校3年の夏、甲子園に出場。2011年にプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから育成3位で指名され、12~14年までプロ野球選手としてプレーした。現役引退後は幼稚園児~小学6年までの子どもたちに野球を教えるジャイアンツアカデミーで小学1年を担当。野球以外のスキルを身に付けたいとの思いから転職活動を開始。16年にコンサル大手アクセンチュアへ入社し、19年にはコンサル業と野球を掛け合わせたNoborder社を、22年には「日本の野球文化の輸出」を掲げる一般社団法人海外野球振興協会NB・ACADEMYを創設した。
―起業のきっかけは。
コンサル会社で3年間勤めたとき「このままで良いのか」と自問した。仕事にも慣れ、コンサルの道でも将来が見えてきた。しかし、やりたかったのはコンサルではなく、野球をビジネスに繋げ、海外展開すること。それで奮起した。
同時期、会社に勤めながらボランティアとして比で野球を教えていた。1年目は2人しかいなかった野球を学ぶ子どもが、3年目には100人も集まるようになり、比で可能性を感じ、比を拠点にNoborder社の起業を決断。スポーツブランディング業として、野球アカデミーの運営をしていた。コロナ禍に伴い、現在は日本を拠点に活動している。
―社名の由来は。
海外展開を見据えていたことに加え、難病経験や貧困等による差別を無くし、あらゆる境界線を越えて仕事がしたいとの想いから名付けた。
―野球普及への想いについて。
なぜ比が野球市場として発展していないのかを考えたとき、天候や道具の費用の問題もあるが、詰めが甘く楽観的な比人の特徴が大きな要因と感じ、それに耐えきれないスポーツ先進国が普及活動を諦めてしまうのではと考えた。われわれが比をはじめ東南アジアと日本の架け橋になり、野球を普及させることができれば、日本野球界の発展にも寄与できると考えている。
―SMBPとは。
公益社団法人青年会議所(JCI東京)と名球会が2012年に立ち上げた事業「スモーキー・マウンテン・ベースボール・プロジェクト(SMBP)」で、22年からNoborder社及び海外野球振興協会が事業継承し、実施主体となる。比の貧困層の子どもたちに野球を教えて、高校や大学に通う奨学金の獲得に向けたサポートをしている。
―アジア高校野球選手権とは。
海外野球振興協会主体でアジア版甲子園を目指す構想。100年続く日本の甲子園には、感動が溢れており、私自身その魅力に憑りつかれた一人。「なぜみんなが熱中するのか」「なぜ知らない子どもの試合を見て涙するのか」などの魅力を含め、そっくりそのままアジアへ輸出することを目指す。
―比との出会いは。
英語を学ぶため、格安航空券のなかで一番近いフィリピンをホームステイ先に選び、2016年に初渡比。ホームステイ先の子どもたちがたまたま野球をやっており、野球を教える代わりに、英語を教えてもらった。
―比でのビジネスの難しさは。
日本のようにスムーズにいかない。待ち合わせは無いようなもので、グラウンドの予約が取れていなかったことも。慣れていない日本人は活動を辞めてしまうかもしれない。一方、時間がかかるものの、これに耐えられれば道が開けると考えていた。
―今後の目標は。
アジア版甲子園の活動も視野に、東南アジアを拠点としてビジネスを展開できる環境を整えたい。
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しばた・しょうご 1989年4月生まれ。三重県いなべ市出身。甲子園出場を経て読売巨人軍に入団。16年外資系コンサル大手に転職。19年にNoborder社、22年に海外野球振興協会NB・ACADEMYを設立し、コンサル業とともに野球の普及に努める。