ハロハロ
一九五九年十月十九日の夜、私はノースウエストのプロペラ機でマニラ空港に着いた。タラップを降りると、ズボンのすそから熱気がはい上がってきた。政府が派遣したルバング島残留日本兵救出・調査団に同行しての取材が目的だった。滞在中の三カ月、マニラとルバング島を行き来し、マニラでは日本大使館の広報室で時間をつぶすことが多かった。
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ある日。広報室の比人スタッフが、掛かってきた電話に出るよう、私に促した。「後半のメロディーが思い出せなくて……」と、電話の向こうで女性が歌い出したのは島崎藤村作詞の「椰子の実」。終戦前年の四四年、偶然知り合った若い海軍士官に教えてもらったと話した。士官は日曜ごとに自宅を訪れ、ピアノに向かうとショパンの小曲などとともに日本の歌曲を弾いてくれたそうだ。
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突然だったが、請われるままに「椰子の実」を何度も何度も電話口で口ずさんだ。海軍士官は翌年初めに消息を絶ち、二度と現れなかったという。マニラ防衛に携わった元艦隊勤務の予備学生だったのかもしれない。戦後十四年たっても、「あの人が忘れられない」という彼女。二人の間に、「うたかたの恋」が芽生えていたのだろう。(濱)