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9月6日のまにら新聞から

正しい歴史認識と資料の公開を 山下将軍降伏の日

[ 746字|2019.9.6|社会 (society)|新聞論調 ]

 ドゥテルテ大統領が記念日にした9月3日は、大日本帝国陸軍の山下奉文大将がバギオ市のキャンプ・ジョンヘイで降伏した日である。コルディリエラに展開した米軍と比ゲリラ兵らの勝利が降伏を導いたのだった。

 しかし、この出来事は正しい視座で捉えなおさなければならない。「バギオ市こそ比での戦争が始まり、終結した場所である」という法案提出者のゴー下院議員の主張や、「この降伏が比と太平洋地域における第2次世界大戦終結のさきがけとなった」という共和国法第11216号の主張は正されるべきだ。

 太平洋戦争の始まりで言えば、旧日本軍は1941年12月7日(米ハワイ時間)朝に真珠湾を攻撃した。同時に、ボイス・オブ・アメリカ(米国の国営ラジオ)のラジオ塔が設置されていたクラークの空軍基地とバギオも空爆された。

 山下の降伏を戦争終結のきっかけとした点も間違っている。日本が連合国軍に対し降伏文書に調印したのは1945年の9月2日で、山下の降伏はその翌日だ。さらに、北イロコス州セルバンテスで起きたべサン・パスの戦いで、山下の部隊は相当弱体化し、降伏以外に選択肢はなかった。つまり、降伏は偶然の一致だったのだ。

 日本は広島と長崎への原爆投下後にすでに降伏していた。この戦いで犠牲となった1400名ものイロカノやイゴロットの人々の名誉のためにも、山下の降伏はべサン・パスの戦いでの比側の勝利と関連づけられるべきだ。

 こうした理由から、記録を保有する比国軍は歴史を正すべきで、我々が山下の降伏を記念するのなら、全ての歴史資料が公にされるべきだ。「べサン・パスの戦いが山下降伏につながった」と発言した大統領がマルコスとラモスの2人しかいないことは遺憾なことだ。(3日・スタンダード、エミール・フラド)

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