フィリピン移民120年⑥ 3代続く差別を乗り越え イネス・山之内・マリャリ博士
ミンダナオ国際大のマリャリ博士に戦後の比の反日感情や日系人支援、比日交流について聞いた
日系人系の学校でも世界唯一の大学とされるダバオ市のミンダナオ国際大学。その学長と比日系人会国際学校の総長を兼務するかたわら、比全土の日系人会を束ねる比日系人会連合会の会長を務めるのが日系3世のイネス・山之内・マリャリ博士(教育学・法学)だ。残留日本人の就籍支援、日系人の地位向上、比日交流の促進に大きく貢献したことが評価され、2021年には当時50歳の若さで旭日中綬章を受章した同博士。山之内家3代にわたるファミリーヒストリー(家族史)は、フィリピン日本人移民史の縮図を見るようだ。
マリャリ博士の祖父・山之内静夫(やまのうち・しずお)は、1910年代に鹿児島県からダバオに移住した。当時は第一次世界大戦で需要が急増したアバカ(マニラ麻)の栽培のため活発に日本から移民が行われた時代。そんな時代に移住した静夫の職業は、「まんじゅう屋」。日本人街が形成されたダバオ市カリナンで、膨らんだ日本食への需要をビジネスチャンスとしてつかんだ。静夫は、ボホール島出身で店を手伝っていたフアナと結婚。後にマリャリ博士の母となる長女・久子を含む、2女1男をもうけた。
新天地でささやかな幸せを築いた静夫だったが、太平洋戦争の勃発が家族を引き裂く。戦時中、静夫は抗日ゲリラ活動や戦闘の激しいダバオを危険と判断。家族をいったん妻の出身地であるボホール島に避難させた。「一度日本の状況を見て、日本の方が安全だったら全員日本に連れて行く」。最後にそう言い残した静夫は、日本行きの船の出るセブに向かったきり、音信不通となった。
▽3代続く差別
終戦後、一家はダバオに戻ったが、家や家財は全て比人に接収され何も残っていなかった。大きな失望が一家を襲ったが、祖母フアナは山に土地を借り、農業で家族を養った。
祖母フアナ、母・久子らは戦後、姓や名を比人のものに変え、出自を隠しながらも静夫の帰りを待ち続けた。その思いもむなしく、80年代になって届いた静夫の弟からの手紙は、静夫が乗った船が米軍に撃沈され、死亡したという事実を告げるものだった。
マリャリ博士が生まれたのは1971年。10人きょうだいの第7子として生まれた。70年代には、日本の総合商社が比に進出し、戦後賠償も終了する。「戦後」が終わり、高度成長を経て生まれ変わった日本が比と新たな関係を築きはじめた時代だ。
それでもなお、日系人への差別は続いていた。戦前、日本人の多かったダバオ市カリナンでは戦時中の記憶を持つ人が多く、マリャリ博士は幼少期、年配者から戦時の日本人の残忍さ、日本人への恨みを聞かされた。そのたび、肩身の狭い思いを飲み込んだ。一家は出自を隠し、家庭内でも自分たちのルーツの話をしないのが暗黙の了解となっていた。母は特に昔のことを話したがらず、マリャリ博士が大きくなってはじめて、実は母が日本語を話せることを知った。
▽結実した日本からの支援
マリャリ博士がハイスクールの生徒のころ、できて数年経ったばかりの比日系人会(1980年設立)に母が入会する。マリャリ博士にも日系人の友人ができ、その友人経由でボランティアの日本語教室があることを知り、通い始めた。その日本語教室は、「われわれは貧しいが、せめて子どもの代には希望と誇りを持たせたい」という2世らの切実な思いを受け、ダバオ生まれの引揚者・平原定志医学博士、内田達男氏らによって始められた事業だった。3世を対象に、主に日本語の話せる2世が授業を受け持っていた。
ハイスクール卒業後、マリャリ博士は地元のホーリークロス大に進学。当時、平原氏・内田氏の招きでダバオ引揚者の慰霊団(墓参団)に参加したのを機に日系人問題に取り組んでいた東京・延浄寺住職の網代正孝氏が代表を務める日比ボランティア協会が、次世代の日系人リーダーを育成するため日本留学事業を始めており、マリャリ博士は大学1年のとき、同事業を通じ1年間東京に語学留学する。「自分は日本人の血を引く日系人である」というアイデンティティを強く抱くマリャリ博士が、やっと訪れることができたもう一つの祖国。たが、祖父の国・日本ではフィリピンの日系人の存在が認知されておらず、もどかしさやジレンマを感じた。
留学時に祖父の戸籍を調べたところ、祖父がちゃんと母・久子たちを戸籍に登載していたことを知る。これは母も知らないことだった。
東京から帰ってきたマリャリ博士は、網代氏の支援で設立された、日系人により植林・環境教育を行う「カリナン社会環境開発機構」(1991年設立)に就職。平日は機構職員、週末は日本語教室で教鞭をとる生活の中、大学を卒業。その後アテネオ大ダバオ校の法科大学院に進学し、法学博士号を取得する。
機構職員として植林・環境教育事業に力を尽くした90年代。その当時でもなお、年配の人たちからは「日本人を見ると嫌な気持ちになる」といった言葉を聞いた。日本の学生・教員らが植林・環境教育に参画していたにもかかわらず、反日感情はなお根強かった。
▽教育事業を拡大
日系人会の運営に入ったのは、法学専門家として招聘(しょうへい)を受けた96年ごろから。週末の日本語学校から始まり、幼稚園、小学校教育も行っていたダバオの日系人会が運営する教育センターを、当時の理事だったパナギートン氏、エスコビリャ現比日系人会長、アピーゴ氏ら2世の尽力の下、正式な小学校として法人化。さらにハイスクール、インターナショナルスクールに業務拡大する際の法律業務を一手に引き受けた。
2001年に同校の校長に就任したマリャリ博士は、「日本語と日本文化が日系人のブランド」という強い信念のもと、日本語を必須科目化する。それまで退職したボランティア教師だよりだった日本語のクラスを、正式に採用した教員が担当する正規科目に引き上げた。
その一方で、01年にミンダナオ国際大学を法人登記し、翌年開校。4年大として高等教育委員会に登録したほか、短期日本語コース開設のため技術教育技能開発庁への登記も行った。10年には学長に就任する。同大の校舎は、乳児院を設立するなどダバオへの貢献に力を注いでいた内田氏の妻・あや子氏の死去(1999年)に伴い、その遺志をダバオに遺(のこ)す追悼事業として建造され、寄付されていた。
「おとうさん」と呼ばれたダバオ生まれの引揚者や篤志家に支えられてきた日系人教育事業だが、今は日系人学校・大学ともに比人、日系人、外国人を広く受け入れ授業料で独立経営ができている。
2012年には、全国13の日系人会を束ねる日系人連合会長に就任。無国籍となっている残留日本人の就籍問題の最前線にも身を置く。日本財団とフィリピン日系人リーガルサポートセンターによる残留日本人国籍回復事業では、みずから残留日本人の聞き取り調査に参加するかたわら、同時に調査地でセミナーを開き、日系人の歴史、将来に対する使命、比日の架け橋としてなすべきことを説いて回った。
▽戻ってきてほしい
比で最高峰の日本語教育を行うミンダナオ国際大学は、日本人の目には日本で働ける人材を育成する優れた教育機関に映る。だがマリャリ博士は「日系人には比に戻ってきてほしい」と語る。「日系人はみんな日本に行っていまい、日系人会支部も次々閉じている。でも私たちの組織を守るのは日系人」。
博士が比日友好にとって最も効果的で重要だと信じるのは「教育の力」だ。
「例えば敬語が使えなければ、日本語が話せても高度なビジネスの場にはふさわしくなく、参加できるコミュニティが限られる。これでは相互理解の幅が狭められる。教育を通して正しい知識・言語・日本の良さを共有することは、より強固な比日の相互理解につながる」。学問と教育の力で3代続く差別をはねのけ、二つの博士号に裏打ちされた見識で日系人社会を率いるマリャリ博士。その情熱は比日の友好の輪を広げる次世代の育成に注がれている。(竹下友章)