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9月21日のまにら新聞から

託される戦争の記憶(下) 家族の歴史に今を学ぶ 防空壕のある家と祖父母の話

[ 1373字|2021.9.21|社会 (society) ]

米軍兵として日本軍と戦った祖父を持つ比系米国人サントスさんに話を聞いた

第2次世界大戦中に、極東米軍兵として日本軍と戦った祖父について語るジョン・サントスさん=2日、首都圏マカティ市グリーンベルトで深田莉映撮影

 首都圏マカティ市に住むフィリピン系米国人アーティストのジョン・サントス(55)は幼いころ、よくブラカン州にある母方の祖父母の家に滞在した。庭には地下防空壕とその鉄製の厚いふたが残る家だった。祖母ジナイダ・アドリアーノは朝ごはんの時によく戦時中の話をしてくれた。サントスにとって家族の歴史を語り継ぐことは「どんなに平凡な内容であっても、人生の視野を広げる上で大きな価値がある」という。2003年に他界した祖父のフランシスコ・アドリアーノは第2次世界大戦中、フィリピンで極東米軍兵として日本軍と戦い、生還していた。(敬称略、聞き手は深田莉映)

 後に陸軍准将にまでなった祖父フランシスコは1937年、フィリピン・ミリタリー・アカデミーを首席で卒業し、学長賞として剣を授与された。2年後の39年に結婚、4人の子どもを授かった。しかし42年1月、日本軍がフィリピンに侵攻し、ルソン島での戦いが始まると、家族は戦火を逃れてブラカン、パンパンガ両州の2つの家を行き来する生活を余儀なくされた。

 祖母ジナイダの話では、近くで両軍の戦闘が始まるごとに住居の移動を迫られたが、映画のような血みどろな毎日を送ったわけではなかった。近隣住民がよく集まって各々の家族の無事を祈っていた。「夫や父の居場所、安否さえ不明な日々でも、祖母は子どもに食事を与え寝かさなければならない。そうした日常があった」とサントスは語る。

 ある日、日本兵がパンパンガ州の祖母たちの家に押しかけ、軍の事務所にすると家を接収した。戦況が悪化し引き上げる段になって日本軍は、証拠隠滅のため家を燃やしたという。祖母から「こんな理不尽なことが信じられるかい」と問いかけられたのを覚えている。

▽生きて家族と会うため

 日本軍に捕虜として捕らえられた祖父フランシスコを待っていたのは「バタアン死の行進」だった。日本兵の激しい暴力と虐殺、そして飢えと衰弱が追い打ちをかけた。多くの人が死んでいった。祖父が生き抜くことができたのは「行進中にはぐれた弟を必死で探し、生きてまた会うことだけを考えていたから。人を思う気持ちが与える生命力は計り知れない」。兄弟ともに死の行進を耐え抜き、再会を果たすことができたという。

 一方、サントスの父方の祖父でエンジニアだったバレンティン・サントスは、捕虜としてサンチャゴ要塞に収容された。「祖父の話で最も印象に残っているのは、要塞で飲み水が与えられず、石に伝う水を必死になめて生き延びたという話」。

▽コロナ禍で戦争を思う

 朝鮮戦争に派遣されていた祖父を持つ同性婚相手とともに、サントスは数年前、マニラ市にある戦没者慰霊碑を訪れた。「米国の歴史の新たな側面を知るのはとても大切なこと。国籍に関係なく、祖父の隣で散っていった戦没者を思い感傷的になった」と遠くに目をやりながらつぶやいた。

 「コロナ禍ではよく祖父母の話を思い出し、戦時中に思いを馳せるようになった。私たちも今、コロナや経済的な問題、人々の分断などを相手に戦っている。『良いことも悪いことも永遠には続かない』という祖母の言葉を胸に刻み直す日々だ」「大切なのはいつだって愛を忘れないこと。苦しい時を生き抜くのは私たちが最初ではないのだから」と希望の言葉を口にした。(終わり)

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