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10月23日のまにら新聞から

旧戦闘地域の復興手つかず 見通しもなく住民に怒り

マラウィ市の戦闘終結から1年なるのに合わせ、現地住民の声と旧戦闘地域を取材した

[ 1450字|2018.10.23|社会 ]
スルタン・オマル・ディアナラン大通りに設置された軍による「進入禁止」の看板=21日午後3時ごろ、ミンダナオ地方マラウィ市で撮影

 橋からマラウィ市の中心部を眺めると、道の両側に並ぶ建物に無数の弾痕がくっきり残っていた。クリーム色や薄青の壁はくすみ、窓や壁、屋根すらなくなった建物には人の気配がない。がれきの上にはツタなど雑草が生い茂っていた。

 昨年5月から5カ月間の戦闘が行われたアグス川の東側はかつての商業地区だった。週末ともなれば、目抜き通りだったゴミサ通りは多くの人であふれていたという。

 23日でドゥテルテ政権による戦闘終結宣言から1年。過激派「イスラム国」(IS)に忠誠を誓うマウテ・グループと軍による戦闘で徹底的に破壊されたこの商業地区は「グラウンド・ゼロ」(爆心地)とも呼ばれる。この地区の復興はまったく手つかずのままだ。

 マラウィ市のシンボルであるグランドモスクの裏手の家で、母、妻、子ら9人で住んでいたジョウハリ・マルホムさん(42)は昨年5月23日午後3時ごろに最初の銃声を聞いた。「一晩中銃声が鳴り響き、声を潜めて過激派に気づかれないよう伏せていた」。翌朝、脱出しようと橋を車で通ると、過激派からジハード(聖戦)に参加するよう促された。ただ、住民に銃を向けることはなく「『あなたに平和を』とアラビア語であいさつをしてきたので、同じ言葉を返した。インドネシアかマレーシア人のように見えた」。

 隣接するサギアラン町の親戚宅に身を寄せていたマルホムさんは今年2月、同市サゴンソガンの仮設住宅に移り住んだ。等間隔でプレハブ小屋が並ぶ一角に約340世帯が今も暮らす。

 マルホムさんの自宅は所有していた賃貸アパートとともに軍の空爆で廃墟となり、今は収入がない。最近は2カ月近く社会福祉開発省(DSWD)からの支援物資も途絶えており、親戚頼りの生活だ。「今ほしいのは今後の見通しだ」と話す。

 マラウィ復興特別委員会(TFBM)が開く対話集会は7月を最後に開かれていない。「復興計画について口約束ではなく、覚書など書面の契約がほしい」。

 ▽なぜ住民はだめ

 旧戦闘地域への一時帰宅が許されたのは5月の1度だけ。住民の同地域の立ち入りは「仕掛け爆弾などの処理が終わっていない」として今も制限されたままだ。「安全や防犯上の理由は分かるが、住民の気持ちを行政はもっと汲んでほしい」とマルホムさん。

 今月16日には立ち入り制限に抗議する住民らの集会が開かれ、旧戦闘地域に向かう橋を渡ろうとした住民を国軍兵士が押しとどめる場面もあったという。

 集会を主催した一人のドリエサ・リニンディンさん(38)は「兵士の友人や外国人の視察は許されているのに、なぜ住民はだめなんだ」と声に怒りをあらわにした。一時帰宅した住民が「爆発に巻き込まれたといった話はない」とも言い、軍による「封鎖」に疑念を募らせていた。

 住民を支援する非政府組織(NGO)の連合体、開発援助チーム(DAT)の事務局長で弁護士のカハリッド・アンサノさん(39)は復興計画の中に「公共施設のトイレを男女共用とするなど、マラウィの宗教や文化に配慮がない」計画が含まれていると指摘した。

 旧戦闘地域をめぐる具体的な復興計画は発表されておらず、がれき撤去がようやく今月末から始まるとだけ知らされているという。

 アンサノさんはマラウィ復興の遅れについて「ドゥテルテ大統領はミンダナオ地方のイスラム教徒への歴史的な不正義をただすと言ってきた。しかし、マラウィの住民は今、新たな不正義を被っている」と訴えた。(マラウィ=森永亨)

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