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シリーズ・連載

移民1世紀 第1部・1世の残像

第1回 ・ 「優しい道」は祖父の道

 二十世紀初頭、フィリピンは日本人の出稼ぎ先だった。約五千人が比へ渡り、建設・農園労働者としてバギオ市やダバオ市で根を張っていった。移民の大半は農村出身の男たち。比人妻と子供たちは太平洋戦争の戦地に取り残され、戦中・戦後を「比人の敵」として生きた。一九八〇年代半ばからは日比の位置関係が逆転し、日本へ向かう比人出稼ぎ者が...

第2回 ・ 苦闘の現場「キャンプ3」

 一九〇一年(明治三十四年)に始まったベンゲット道路(別名ケノン道路)建設工事では、労働者の寝泊まりする飯場「キャンプ」が計八カ所作られた。現在も地名として残る飯場跡の一つ「キャンプ3」は、標高約五百メートル付近にある。終点・ベンゲット州バギオ市(標高約千六百メートル)を山の頂上とすると、その名の通り「三合目」に位置し...

第3回 ・ 日本人の「貢献と犠牲」

 ベンゲット道路(別名ケノン道路)に入って約二十六キロ。飯場跡の一つ「キャンプ6」を過ぎると、道は急にこう配を増す。終点のベンゲット州バギオ市までは約十五キロの道のり。車窓を開け放つと木々の香をたっぷり含んだ冷涼な空気が吹き込んでくる。熱帯の太陽に慣れた首都圏の住人が「別世界」という言葉を実感する瞬間だ。

第4回 ・ 自爆で家族死守した父

 ベンゲット州バギオ市を中心にしたルソン島北部には、戦前フィリピンへ渡った日本人労働者の子供、日系二世が四百人近く生存している。同州ラトリニダッド町に住む加藤オタチさん(74)もその一人。畑に囲まれた自宅を訪ねると、ラミネート処理された一枚の紙を見せられた。

第5回 ・ 戦地に残った家族と柿

 ベンゲット州バギオ市周辺には柿(かき)の木があり、その実は「KAKI」と呼ばれている。百年前、ベンゲット道路(別名ケノン道路)建設に従事した日本人移民が持ち込んだとされ、最低気温が十五度を切る十月から十一月にかけて小ぶりな実をつける。

第6回 ・ サガダ町の「ヤマシタ」:ヤマシタ姓の日系人一家は教会建設の技術者の子孫。町では山下将軍よりも有名

 フィリピン人の間で一番よく知られている日本人の姓は恐らく「ヤマシタ」だろう。旧日本軍第十四方面軍を指揮し、マニラからベンゲット州バギオ市を経てイフガオ州キアンガン町で降伏した「ジェネラル・ヤマシタ(山下大将)」。戦後六十年以上を経た今もなお、その存在が再三クローズアップされる「ヤマシタ・トレジャー(山下財宝)」。いず...

第7回 ・ 格差生んだ日本出稼ぎ

 マウンテン・プロビンス州はルソン島北部に広がるコルディリエラ山脈の真っただ中に位置している。「秘境」として知られる同州サガダ町は標高約千五百メートルの山中、深い松林の中にある。町中心部に住むヤマシタ家とヨシカワ家は、戦前に町のキリスト教会建設に携わった日本人移民の子孫。ともに苦難の戦後を歩んできたが、一九九〇年代半ば...

第9回 ・ 比で生きる日本人兄妹

 「まじめで勤勉、やり始めたことは絶対やり遂げる。戦前はそのことを『大和魂』と呼んでいました」と兄。妹も「正直、勤勉、誠実。そして時間をきちんと守る。これが日本人だと私ははっきり言えます」。目の前には、明治生まれの父から受け継いだ「日本人たること」を忠実に守る兄妹がいた。

第10回 ・ 日系人社会の再生願い

 日本人移民八十周年に際してベンゲット州バギオ市の日系人組織が作成した記念誌に、日傘代わりにこうもり傘を差し、つえを突きながら山道を行く修道女の写真が掲載されている。「何か自分にできること」を探し求めてフィリピンへ渡り、一九八九年十二月に七十八歳で亡くなるまで十八年間、日系人の救済に尽くしたシスター・テレジア海野=本名...

第11回 ・ 比人と共に生き……:グラフ1

 ベンゲット州バギオ市には、ベンゲット(別名ケノン)道路建設で命を落とした日本人移民らを埋葬した日本人墓地があった。一九二六年(大正十五年)五月、バギオ日本人会が建立した「先亡同胞諸制令菩薩塔」を中心に県人会の慰霊塔や個人の墓が緩やかな斜面一面を埋めていた。