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シリーズ・連載

日本人戦犯帰国60周年

第1回 ・ 「強いきずなで結ばれた戦犯仲間を持てたことが何より良かった」と元死刑囚の宮本さん

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モンテンルパ時代に自ら作った短歌や独房内のデッサンなどをまとめた私家本を自宅で見る宮本さん=京都府与謝野町の宮本さん宅で写す

 1953年7月22日、フィリピンでBC級戦犯裁判にかけられた旧日本軍将兵108人を乗せた白山丸が横浜港に到着した。米軍に投降後、戦犯裁判を経てニュービリビッド(モンテンルパ)刑務所で受刑生活を送り、キリノ大統領(当時)の恩赦で釈放、あるいは終身刑に減刑され帰国したのだ。対日感情が依然厳しく、日比両国に国交がまだなかった時代、マニラ市街戦で妻子4人を日本兵に殺された大統領が出した恩赦令。日本社会は戦犯らを熱狂的に出迎え、渡辺はま子の「あゝモンテンルパの夜は更けて」の歌入りオルゴールが大統領の琴線に触れ、恩赦に結びついたとのエピソードも生まれた。当事者だった元戦犯や助命嘆願運動に打ち込んだ日本人画家の遺族、フィリピン政府関係者の遺族らにインタビューし、BC級裁判の実相を4回シリーズで紹介する。

 ▽憲兵隊学校へ

 天橋立に近い京都府与謝野町。丹後ちりめんの産地として知られるこの町に住む宮本(旧姓・中西)正二さん(92)は、フィリピンで裁かれた元死刑囚だった。最近、腰を痛めたという宮本さんだが、声には張りがあった。「戦時中、マニラのイントラムロスにあった憲兵隊学校で1年間勉強し、郊外のサンタメサでタガログ語も勉強しました」と懐かしそうに話し出した。

 20歳で、中部第37部隊第1機関銃中隊(京都市伏見区)に入隊した。1942年5月にルソン島リンガエン湾に上陸。その後、現在のケソン州ルセナやリサール州アンティポロに駐留した。上官の勧めもあり、試験を受けてマニラ比島憲兵隊に入隊した。45年1月にマニラからルソン地方北部へ撤退し、9月15日にイフガオ州キアガン町で投降した。

 ▽容疑者キャンプ

 投降後、まずラウニオン州サンフェルナンドにあった捕虜収容所に収容され、そこから列車でマニラに送られた。途中、沿道でフィリピン人から「バカヤロー」など罵声(ばせい)を浴び、石を投げつけられたという。

 宮本さんはBC級裁判の容疑者キャンプに入っていたとき、米軍マニラ裁判で裁かれた戦犯死刑囚たちが隣の既決囚キャンプから処刑場に送られるのを見送った。「皆さん立派な態度でした。でも、残される者としては銃殺刑が嫌でした。銃声がどうしても耳に入るんです」

 ▽戦犯裁判

 1947年8月、米軍から引き継いだフィリピン政府のBC級戦犯裁判が始まる。裁判は49年末まで続き、151人の被告に対し審理が行われ、死刑79人を含む有罪判決137人という厳しい結果だった。

 宮本さんはアンティポロで10人ほどの住民がゲリラ掃討の日本兵らに殺された事件の容疑者として裁かれた。フィリピン軍関係者の弁護士が付き、真剣に弁護してくれたが、証人の確保に苦労する。原隊が後にレイテ島に送られ、上官を含め全滅したからだ。宮本さんは戦犯裁判について「起訴状の内容がそのまま判決になるんですから、一種のセレモニーですよ。検察側の証人の中には、私が当時、残飯をあげた15歳くらいの少年もいましたが、誰も私の住民虐殺への関与を完全に証明できませんでした」と説明する。

 ▽モンテンルパ刑務所

 48年8月に絞首刑判決を受けた宮本さんは、モンテンルパ刑務所に移された。死刑囚の独房には3段ベッドがあり、3人一組の生活が始まる。隣の独房へも看守に声を掛ければ行けた。「卓球やマージャンもできました。ブニエ刑務所長は理解のある人で、一度、刑務所内で塩がなくなったときに、自宅にあった塩を日本人だけに分けてくれました」と宮本さん。

 比較的自由な拘留生活だったが、51年1月19日夜、中村秀一元陸軍大尉ら14人の絞首刑が行われる。近く減刑される、とうわさされていた死刑囚が含まれていたこともあり、衝撃が拡がった。宮本さんを含め、多くの戦犯が宗教に望みを託し、キリスト教の洗練を受けた。

 ▽大統領恩赦

 冷戦下という国際情勢や対日関係正常化、戦犯拘置費用の財政圧迫、日本の助命運動などを受け、キリノ大統領は苦渋の決断を迫られた。世論の動向を探るように、刑の軽い戦犯を徐々に釈放し、53年6月27日、死刑囚56人を終身刑に、終身、有期刑の49人を特赦・釈放する恩赦令を決定する。

 その後、100名余りの日本人戦犯は7月15日、処刑された仲間17人の遺骨とともに、日本政府が用意した白山丸に乗りマニラを後にする。宮本さんは「フィリピンの領海を航行している間は、当局から呼び戻されるのではないかとひやひやでした。台湾近くまで来てようやく落ち着きました」と当時の心境を吐露する。

 帰国後すぐ巣鴨刑務所に移送されたが、沿道では日の丸を振る大勢の国民に迎えられた。53年12月末、キリノ大統領は終身刑の戦犯も釈放する。「当時の経験は全部がマイナスではありません。いろいろ勉強になりましたし、何より全国に強いきずなで結ばれた戦犯仲間を持てたことは良かったと思います」と締めくくった。(澤田公伸)

 2〜4回は、月曜日2面に掲載します。

(2013.8.4)

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