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8月18日のまにら新聞から

三宅光氏の叙勲伝達式 旭日単光章、ダバオ日本総領事館

[ 2560字|2024.8.18|社会 (society) ]

ダバオ市で、元ダバオ日本人会会長の三宅光氏への旭日単光章の叙勲伝達式が在ダバオ日本総領事館の主催で開かれた

石川義久在ダバオ日本総領事から賞状を受け取る三宅光氏(左)=ダバオで太田勝久撮影

 ミンダナオ地方ダバオ市で7日、元ダバオ日本人会会長の三宅光氏(81)への叙勲伝達式が、在ダバオ日本総領事館主催でウォーターフロントインシュラーホテルで開催された。日本政府は4月29日、令和6年春の叙勲者を公表し、三宅氏は旭日単光章の授与が公表されていた。功労の概要は、在留邦人・日系人に対する福祉功労。授与式には三宅氏の家族、日系人会関係者、ミンダナオ日本人日本商工会議所や東ダバオロータリークラブの会員、フリーメーソンのメンバー、在留邦人の友人ら三十数名が参列し叙勲を祝った。

 ▽生い立ち~フィリピンとの縁

 三宅氏の人生は波乱万丈だ。1943年に福岡県で生れ、愛知県育ち。喧嘩好きで父親から勘当され高校から両親と別居。北大に現役で入学するも時代は学生運動の最中。「副委員長にさせられて、私も暴れまわるのが大好きだから」と授業もほとんど出なかったと述懐。そのうち「シルクロードをオートバイでトルコまで行ってみたい」と休学しバイト。しかし当時、中国と国交がなく教授に止められ断念。代わりに船でシンガポールからバンコクに向かい、途中からヒッチハイクでチェンマイへ。農業機械の卒論調査を行う予定が「少数民族がゾウを使ってチーク材を運搬しており困った」となり、教授の読めない言語で論文を書くしかないと考えた三宅氏はスペイン語を読める先生が大学にいないと知る。「しめたと思った」とスペイン語を勉強して提出。卒業後3カ月井戸掘りをしていたが、教授の紹介で共立農機へ就職。北海道で営業トップになり東京本社へ栄転。都会に飽きた頃に動力噴霧器を30台以上購入する客に会う。フィリピン・ミンダナオ島のダバオで始めるバナナ栽培に使うという。「私を使ってくれませんか」と頼み込み、そのまま1971年にダバオの地を踏む。

 ▽バナナ農園開発

 三宅氏は標高700~800メートルのカリナン地区でバナナ農園開発を行う。電気も水道もなく、「風呂は無いので川で水牛と水浴びし、夜はトコジラミと格闘」。隣人と喧嘩してナイフで切られ全身50針以上縫う大けがをし、担ぎ込まれた病院に麻酔医がおらず麻酔無しで手術し一命を取り留めたことも。1972年から安宅産業の嘱託となり、師で終生の恩人となる吉野芳夫氏が上司となる。吉野氏は戦後ダバオ日本人会初代会長、ドールフィリピン社長、安宅産業が伊藤忠に吸収合弁された後に日本アクセス社長、会長として業績を伸ばしている。退職後は日本バナナ輸入協会会長を歴任され、現在も交流されている。1981年にモラド農産通商株式会社を設立し、セニョリータやモラドバナナを開発し輸出開始した。

 ▽フリタさんと結婚

 元々ネグロス島の漁師の家の娘さんで当時はミンダナオ大の学生だったフリタ・バニバニさんは、三宅氏がオープンした喫茶店の店員をしており、三宅氏が山で寝込んでいるときに看病に訪れ交際が始まった。結婚式後「(彼女は)慌ててウエディングドレスを脱いで料理を作ってミカン箱のようなテーブルに料理を置いてお客をもてなした記憶がある」と三宅氏。2女1男、養子の男子1人を育て上げた。フリタさんもマニラでダバオのバナナを販売する会社等を経営。「女傑で頭が上がらない」、「彼女のおかげで面白い経験が出来た」と語る。フリタさんは2018年に65才で逝去した。

 1982年にはマグロの輸出業も開始。本店をマニラに移し、フィリピン国内(ダバオ、パナボ、ジェネラルサントス、セブ、サンボアンガ、ドゥマゲッティ等)、オーストラリア、日本に支店を持つ。サンボアンガからの帰途、自家用機が墜落しそうになったり、セレベス海で漁をしていた自社の小型延縄船が海賊に拿捕された事件など、話題に事欠かない。

 ▽最大の苦労

 三宅氏は、豪州で雇用していた社員にだまされ多額の損失を出したときが最大のピンチだったと語る。「自家用機、船、車両、売れるものすべて売った。10年近く返済し続けて仲人でもあった三井農林海洋産業㈱の野澤眞次氏より『よくやった、残りは損金で落とすからいいよ』と言ってもらえて持ち直した。それがフィリピンで一番苦労した経験。夜逃げしたら負け犬になると思って頑張った」と省みる。

 また、三宅氏は東ダバオロータリークラブ(東ミンダナオやセブを含むビサヤ地方の広範囲をカバー)の国際奉仕委員長として千葉、宮城・石巻、若柳ロータリー(及びインドネシアの1地区)と連携し、数千万円の寄贈を得て各地へ行き、フィリピン青年への奨学金としたり校舎建設や水道事業を行ったことが「最も有意義だった」と表情を明るくして語る。

さらに、三宅氏は1978年から2006年まで2~4年間のブランクを挟み都合22年間にわたりダバオ日本会会長を務め、在留邦人のために尽くしたほか、日本人として初めてダバオのフリーメイソンの1支部(ビーコンロッジ)代表に就任し、社会貢献活動にも従事。まにら新聞ダバオ支局長(2000~16年)も務め、執筆のみならずダバオ市内で自社スタッフを使って新聞の配達も行なう。

 ▽もっと早く表彰すべきだった

叙勲伝達式で石川義久ダバオ日本総領事は、バナナ農園の開拓者、ダバオ日本人会会長を通算22年、他組織での活動など多大な功労、さらにいくつ命があっても足りない事故や事件を生き抜いてきた例を上げ、「強運に恵まれたのは、三宅氏の開拓者精神、独立不羈(ふき)、率直さ、努力家という人柄とフレンドリーな笑顔があってこそ」とスピーチ。最後に「日本国政府はもっと早く、奥様がご存命のうちに表彰すべきであったと感じています。今、奥様は貴方を誇りに思っていると思います」と強調した。

 また、日系2世でダバオ日系人会のアントニナ・B・オオシタ・エスコビリャさん(平成30年秋、旭日小綬章)やイネス・ヤイネス・山之内・マリャリさん(令和3年秋、旭日中綬章)も列席。ダバオ市の政治経済の重鎮であったロータリーやメーソンの仲間も集まり、三宅氏がダバオの歴史の一部であることを感じさせられた。在留邦人からもお祝いや感謝の言葉を贈られるなど、三宅氏の人柄を反映し明るく和やかな会となった。(ダバオ=太田勝久)

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