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2月12日のまにら新聞から

日系人通じた相互理解と友好に尽力 酒井ミチコさんを在外公館長表彰

[ 1280字|2022.2.12|社会 (society) ]

在ダバオ日本総領事館は日系人の国籍の回復や比日の相互理解と友好に尽力してきたコタバト日系人会の元会長、酒井ミチコさんを表彰

左から三輪芳明駐ダバオ日本総領事、酒井ミチコさん、娘のスサナさん=7日、ミンダナオ地方ダバオ市で太田勝久撮影

 在ダバオ日本総領事館はミンダナオ地方ダバオ市で7日、日系人の国籍の回復や比日の相互理解と友好に尽力してきたコタバト日系人会の元会長、酒井ミチコさん(85)に在外公館長表彰を授与した。酒井さんは南ラナオ州マラウィ市で1936年、父親・酒井弘男さんと母親・プリミティバ・ヤネツさんの間で生まれた日系2世。

 酒井さんは在外公館長表彰を受けて、感激した様子で涙ぐんだ。「問題と向き合っていて心が折れそうになったこともあったが、これまで犠牲を払って日系人のために尽くしてきたことが認められて嬉しい。大変名誉に感じる」と喜びの言葉を伝えた。また酒井さんの自宅を訪ね、表彰を行った三輪芳明駐ダバオ総領事とも抱擁を交わす場面もあった。当初は3月に離任を予定していた三輪総領事は、翌日8日付で同総領事を離任することとなった。今回の表彰がダバオ領事館事務所だった2018年3月に所長として着任して以来、19年1月の総領事館への格上げを経て、最終日の務めとなった。

 酒井さんの父は1930年代に渡比し、マラウィ市内で調理具や家具を販売する店を経営していた。当時一般にはあまり普及していなかった自家用車を所持し、2男4女の長女として生まれ、恵まれた家庭だった。それが太平洋戦争の勃発で一変。戦争中に父は軍属の通訳として田中部隊に従軍。終戦間近の 1945 年6月ごろに家族のもとに戻ってきて、母ヤネツさんに「子どもたちを頼む」と言い残し、日本軍に合流したきり消息を絶った。

 反日感情のはけ口が日系人にも及んだことから、酒井さん一家も山奥に身を隠して終戦を迎えた。戦後、多くの日系人が名前を変え証拠書類を廃棄せざるを得なかった。無国籍に陥り、満足な教育や医療を受けられず、最貧困の生活を余儀なくされた。一方、高校を卒業できた酒井さんは、スペイン人系フィリピン人の男性と結婚。コタバト市でココナツ農園と家を所有し、2男5女にも恵まれた。周囲の日系人は多くが貧困から書類手続きに割けるお金も持ち合わせていなかった。酒井さんはそうした日系人を自費で支援し、国籍を回復した自らの娘たちが日本で仕事を見つけてからは、仕送りの一部もこうした支援に充ててきたという。

 

▽日系人社会の大きな誇り

 ミチコさんをよく知る日本人の一人、フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)の猪俣典弘代表理事は、まにら新聞に「酒井ミチコさんは、戦中に消息不明となった父を探しながら1970年代にコタバトで日系人会を立ち上げた。残留日本人2世の親族捜し、国籍回復のため尽力された。額に汗をかきながら国軍と反政府グループの戦闘が頻発する地域に住む残留2世たちを訪問し、話を聞き、困窮する彼らを支援してきた姿を見てきた。今回の表彰はご本人、ご家族のみならず、フィリピンの日系人社会にとっても大きな誇りであると思う」とコメントを寄せた。

 フィリピン全土でまだ数百名の2世がいるとみられ、平均寿命も約82才であることから、国籍の回復問題は時間との戦いになってきている。(ダバオ=太田勝久)

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