天皇訪比の意義
「日本人が決して忘れてはならないこと」との晩餐会での言葉に凝縮されていた
天皇陛下が今回のフィリピン訪問に託したメッセージは「貴国の国内において日米両国間の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、(略)貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないこと」という晩さん会での言葉に凝縮されていた。
太平洋戦争で比では51万8千人の日本人が命を落とした。外地では最大である。食糧も兵たんも乏しいなかの悲惨な戦いについて、日本では多くの記録が残され、小説や映画にもなった。多数の慰霊碑が比国内に建立された。だが比側の犠牲について思いを寄せたり、悔悟をつづったりした例は極めて限られている。
比側の死者は111万人に及んだ。当時の国民の16人に1人に当たり、ロムロ元外相は「人口に比してアジアで最も大なる惨禍を受けた国」と語っている。
太平洋戦争を始めた日本は7200万の人口のうち310万人を失った。つまり比人の死亡率がはるかに高い。なぜかくも多くの人々が戦渦に巻き込まれたのか。米国からの独立間近い比に日本が進軍したからにほかならない。
しかしながら、われわれ日本人の多くは、忘れる以前に歴史的事実そのものを知らない、あるいは関心がないように私にはみえる。天皇は旅立ち前の羽田空港で「マニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜(むこ)のフィリピン市民が犠牲になりました」と述べたが、1945年2月のマニラで10万人もの命が奪われたことをどれほどの日本人が知っているだろうか。
自国に不都合な歴史的事実を知ろうとしない、認めたがらない風潮が強まるなか、天皇の言葉は重く響いた。さらに言えば「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という昨年8月の安倍首相談話に相対する考え方だと私には思えた。
今回の訪問は、比日国交正常化60年を記念し、昨年訪日したアキノ大統領の招待にこたえるという形をとったが、天皇自身の強い意志を反映した「巡礼の旅」という印象が強かった。
訪問決定後の準備時間は異例に短かった。両陛下の年齢を考えると、時期は酷暑が和らぎ、雨も少ない1〜2月しかない。ところが今年は2月9日から大統領選をはじめとする統一選が始まる。ぜひ今年のうちに、という天皇自身の願いがきつい日程を乗り越えたと観察できる。
日本と関係が深い東南アジア諸国連合(ASEAN)の創立メンバー5カ国のうち天皇が訪問していないのは比だけだった。先の大戦で最も大きな被害を受けた国を天皇として慰問することへのこだわりが感じられた。比人の戦死者がまつられる無名戦士の墓への訪問や多数の日系人との懇談も天皇が希望したと伝えられている。
比は戦後、反日感情が最も強い国だった。皇太子時代に訪比した54年前は「神経質になっていた」と天皇は今回、告白されている。
その国がいまや屈指の親日国となった。日本政府や民間の援助、日本企業の進出や投資、日本に出稼ぎした女性らの定着と交流など様々な理由がある。比の歴代政権も歴史問題で声高な批判は控え、記録の保存にも執着しなかった。
何より、罪を赦す比人の寛容さ、宗教的な背景が両国関係の融和に寄与したことは間違いないだろう。今回の天皇訪比であらためて考えさせられたのは、時の流れや比人のやさしさに甘えて、私たちは過去を心に刻むことを怠ってこなかったか、ということだ。
憲法上、政治から離れた立場にいる天皇だが、今回の訪比で政治が今後解決すべき課題が浮き彫りになったと思う。ひとつは国籍回復などによる残留日系人の救済。もうひとつは中止されたままの遺骨収集の再開への条件整備だ。いずれも戦後処理の一環であり、政府の早急な対応が求められる。(編集顧問・柴田直治)
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柴田直治 1979年朝日新聞社入社、マニラ支局長、アジア総局長、論説副主幹などをへて国際報道部機動特派員。昨年12月に定年退社し、今年1月からマニラ新聞編集顧問に就任。